生還74歳「感謝でいっぱい」=「計画甘い」反省も―富山

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この記事の内容にではなく、書き方を忖度すれば、いろいろな考えがよぎる。もちろん、それに触発されたような意見を持つ人も多く出現するだろう。

この記事に関係なく、事実関係を列挙するならば、

  1. 山に遭難した人が救出された
  2. 遭難そのものは不注意によるアクシデントのようだ。
  3. 幸い、けががなく、救出を待つことができた。
  4. 遭難者は、夏山とはいえ一週間をサバイバルした。
  5. その主要な理由として遭難時の食料、服装などの対策がされていた

 

よってこれは成功例として扱うべきもので、どれだけの幸運があったにしろ、成功例のひとつである。

 

一方で、事故そのものは当人も認めているように不注意に起因するようだ、もちろん、不注意を根絶できない。ヒューマンエラーとはそういうものだ。もし「できる」という人がいれば驚くしかない。

 

ミスは必ず起きる。その時に大事になるか、どうかは運次第だ。運悪く起きた事に対して「登山届」の適切な運用が必要と主張する。それでも事故は起きるし予期せぬ計画変更はあるので、完璧はない。それでも情報が欲しいのだ、という場合に、登山届がどれだけ役立つか、それを見るだけでも登山者の力量から現在の状況まで色々と読み取れるし予測もできるのであろう。

 

一方で、この記者は唐突に『柳沢隊長は登山者に対し、「自分の体力や技術に合った登山をしてほしい」と呼び掛け』と書く。まるで、遭難者はすべて体力不足、技術不足であるかのような印象である。

 

これは言語の論理性ではなく、言語の印象性の問題である。事故を起こした事が悪い、迷惑を掛けたのだから反省せよ、みたいな論調が起きるならば、もちろん、誰も身構えて動けなくなるはずである。それは全体の運動を抑制するだろうし、もちろん、失敗しないことを最高の価値観におくようになる。それは望ましい道ではない。

 

この記者の書き方は唐突な話題の出し方なのである。その唐突さが、まるで記者のもっとも主張したい点がそこにあるかのような印象を受ける。そこに前段からの関連性が何も書かれていない以上、この記者は遭難者を批判している、と忖度したとしても不思議はない。まるで事故を起こしたやつが悪いというのが記者の結論に読めてしまう。

 

いずれにせよ、この国が持っている失敗への批判は、失敗が安心感を与える役割を持っている事を示す。その背景には、もしかしたらこの国では失敗すること以外では立ち止まれない、という側面があるのではないか。

 

成功したなら、次に進むしかない。だから、だれかの失敗は、自分はそうならなくて良かった、という優越感の他に、ああ、これでやつはこのレースからは下りれるのだ、という羨望の気持ちも含まれているのではないだろうか。

 

一方で他人の失敗や間違いによってしか留飲を下げれない人たちもいる。それが健全な状況とは思えないが、この記事はそういう方向を向こうとしているようにも読めるのである。