秋葉原殺傷、遺族「加藤被告を死刑に」 初の意見陳述

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女子高生をレイプしたあげくコンクリート詰めにした殺人が起きた。犯人達(4~7人)は逮捕されたが、未成年という理由で今もこの世界で生きている。この時に日本の司法は死んだ。正義を追求するならば、たとえ拘置所の中であっても、彼らに首を吊らせるべきだったのだ。正義を手放した司法に何が残っているだろう。

 

この犯人達を憎むのはとても簡単だし、二度とこの世界に転生しないほどの苦しみによって死ねべきである。正義がない今、そういう復讐しか手段は残っていないはずである。

 

それと比べれば、この加藤なにがしが、それほどの悪人には見えないので困る。遺族からすればもちろん憎むべき犯人であり、死刑に異存もない。だが、この加藤智大がそれほどの悪人に見えないので、何故、そんな犯罪に走ったのか。その謎が人々の中に何かを残している。それは文学の領域だろうか。

 

ドストエフスキー罪と罰という傑作な探偵小説では、ラスコーリニコフが理想に燃えて老婆を殺傷する。そして判事ポルフィーリィとの対決、娼婦ソーニャの存在。それが彼の心を揺さぶる。果たして、罪とは何か、罰とは何か。

 

彼の理想が起こした老婆の殺人と比べれば、21世紀の殺人者には何の理想も思想も見えない。あれだけの命を奪ったのに、虚無である。まるで弱々しい。

 

理想に燃えたわけでもなく、 だからといってカミュの異邦人のように「太陽が眩しかったから」という理由さえもない。

 

ただ、インターネットの掲示板で馬鹿にされ、それを見返すためだけに17人もの人間を刺したと語る。彼にとってそれは猫でも枕でもソーセージでも良かったはずだ。どうして人間でなければならなかったのか。

 

なんだか、彼からは絶望という言葉しか聞こえてこない。それは幻聴であろうか。彼は「絶望した」という言葉もなく、もくもくと秋葉原を歩いて回った。不思議な光景だ。

 

新聞に写っている彼を見て、AKB48のコンサート会場にいても何の違和感もない、そういう人に見えた。果たして、理由らしい理由もなく人を殺して回るのと、何らかの欲望によって人を殺すのと、一体、どちらが悪人なのだろう?

 

一体、悪人がいるとして、それはどういう人物であろう?絶望が殺人に昇華するまでに、どれだけの叫びが必要だったのか。彼の思想はどういう変遷を辿り、あの場所に突き進んだのか。

 
その心理を描くのに論評では足りない。小説しかないのではないか。果たして小説は万人が悪と認めるような人物を描く事に成功するだろうか。