裁判員、辞退増止まらず 制度開始9年

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裁判員制度がなければ、死刑にされていた人がいるかも知れない。裁判員のおかげで死刑になった人もいるだろう。本当の犯人であるかどうかが問題なのではない。その証拠では犯人とはできないという判断が下さるか否かだ。

 

3権のうちもっとも最初に劣化したのは司法であった。

「主文、被告人は無罪」


裁判員制度について、参加する人への負担だの、素人だの、そういうのは判決の上で何も問題はない。「疑わしきは被告人の利益に」この一点だけで判断すれば十分である。

  • 証拠がどうもうそくさい、無罪。 
  • 状況証拠しかない、無罪。 
  • 自白しかない、無罪。 
  • どうも検察官の顔がうそつきに見える、無罪。 
  • どうも俺には決断しかねる、無罪。 
  • この事件は非常に難しい、無罪。

 

無罪に理由を示す必要はない。有罪には必須である。

 

だから、証拠について説得する義務は検察側にある。もし説得できない証拠なら無罪となるのが当たり前である。説得できない証拠しか検察が集められなかったのであれば、

  • 検察が無能であるか 
  • 検察の捜査権限が制限されすぎたか 
  • 被告人が無罪であるか

のいずれかしかないからである。例外として被告人が完全犯罪(証人の殺害も含む)をした可能性もあるが、これは例外である。このような場合は、別の方法がいる。


さて、司法が最も最初に劣化したと書いてたが、それは数々の冤罪を見ても分かる。新聞を読むだけでも一般常識に反する判決で溢れている。

 

何故だろうか。その原因は人事にある、と言いたい。

 

人事というのは、結局のところ、仕事以上の存在である。だから、組織は人事で決定するといっても過言ではない。

 

例えば、何かをしたいと人がいる、その人がしたい事が大きければ大きい程、出世しなければならない。 当然ながら、その人は人事に対して最も有利的に行動する。そのために必要なことが目の前の仕事よりも優先されるならば、そちらを選ぶ。自分の目的を達成するためには、である。

 

さて、人事で決定的になる組織において、やりたい事がない人でも出世は可能である。戦略は何も変わらない。こうして人事にはゲーム理論が働く。

 

おぎゃと生まれた時はいいが、学校に入ってからは全てゲーム理論に従って動けば、そこそこの地位には立てるのである。組織では、何よりも内部の要求(人事)が優先される。その上で、外部の要求に応じる。これは日本だけでなく、世界中の組織がそうである。

 

むかし坂本竜馬は、日本を押さえるなら金山を押さえよと語った。そう司馬遼太郎が書いているが、今ならば人事を押さえよ、と言う所だ。

 

恐らく、司法は、人事が裁判の内容よりも優先されるようになった組織だと思われる。だから出世を狙う人はみな人事の方向を向くようになった組織なのだろう。それゆえに劣化は早い。

 

外部との交流がなくなればなくなるほど、人事は独自になってゆく。そのに併せて内部の人間には独自の力学が働き始める。その力学はついには業務も覆い尽くす。これは全くの空想であるが、死刑判決するための材料は証拠にあるのではない。裁判官にとって、証拠とすべきものは人事考課の中にある。

 

太平洋戦争における人事の話には興味深いものがある。アメリカと戦争するに当たり、日本の人事は適材適所よりも、ハンモックナンバーを優先した。

 

ハンモックナンバーはもともと薩摩が中心であった海軍において、その弊害をなくすためのルールであった。出自によらず、兵学校の卒業成績を重視した人事である。

 

ひとつの弊害の後に別の弊害がやってきた。確かに、平時ならばこれで大きな弊害は起きない。成績で決まるなら、将来まで読みやすい。誰がどう動くかも計算しやすい。その力学の上で無駄な争いをしないで組織を運用できる。

 

もし、戦争というものが、両国の中将、大将をひとつの部屋に集めて、ペーパー試験で決着をつけるのであれば、戦争中であっても合理的な人事と言える。だが、実際の戦争は、教室のペーパー試験で争うわけではない。

 

日本は、江戸時代のお役目をお家が代々受け継ぐという不公平さから明治維新を起こし、家の次は藩が大きくものを言うようになった。これに危機感を持ち、次は学校の成績を有力な基準としたが、それが戦中の適材適所を妨害した。

 

人事には二つの面がある。一般的な基準となるルールとしての人事。これは何でもいい。お家だろうが藩だろうが、成績だろうが。

 

重要なのは、その中に例外を持つ事。案件によっては、ルール外の規約でやる柔軟さが必要だ。この例外を持たない人事は必ず破綻する。これでやっても破綻する時は破綻する。

 

江戸時代でさえ、有能な人物は身分を超えて取り上げられ重要な地位を占めた。その柔軟性は、その時の権力者の一声で決まったため、その人と一蓮托生な人事だったかもしれないが、臨機応変さは、今の時代を凌ぐものだったろう。アメリカの人事に近いものであったろう。

 

人事に警戒感を持たない組織は滅びるのである。