秋葉原連続殺傷、加藤被告に死刑求刑

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TVでは、悪の極み、と言っていた。

 

だから悪について考えてみたい。

 

例えば、アドルフ・アイヒマンという人は、ペンは剣よりも強しを地で行った人でとても優秀な官僚であった。余りに優秀過ぎたためにイスラエルで縛り首にされた。ここに悪はあるか。

 

連合赤軍は警察と対峙する前に既に共食いをし粛清され尽くしていた。ここに悪はあるか。

 

wikileaks で流出したイラク戦争シューティングゲームのように民間人を殺傷をしたアメリカ兵に悪はあるのか。

 

一節には、悪魔は神の許しを得ない限りは人を殺していないという。その数13人、神が殺した数は3000万と言われる。殺した人の数が悪の定義になるのか。

 

殺される者にとってそれは常に悪である。それが悪魔であろうが神であろうが人であろうが関係ない。命は永遠にして不滅だから刈り取られるためにあるから。麦の刈り取りを嘆くものはいないから。そんな理由で許せるものか。

 

アラブで自爆テロを行うものに悪があるのか。彼をそう仕向けた洗脳者に悪があるのか。アフリカで子供を誘拐した兵士に悪はあるのか。欧米で幼女を誘拐し売買する者に悪はあるのか。アジアでロボット兵器に殺される兵士に悪はあるのか。

 

悪なる行為は、なんの罪悪感も持たずに行われるものだ。であれば、誰もが悪という存在になりうる。そして死ぬまでそれに気付かないかも知れない。何気なく行った行為が悪だったのかも知れないのだから。自覚がない事が悪から逃れる唯一の方法であるか。

 

後から後悔できる者は幸いだ。どうしても悪は裁けない。裁くのは自分自身しかいない。自らを裁くものだけが罪人ではないのか。


秋葉原の彼の行為は犯罪に違いない。それは確かなことだ。だからと言って犯罪者を裁けばそれで忘却してよい事件とは思えない。彼だけが悪なのか。彼の悪なるものはどこから生まれてきたのか。

 

彼の心理は追体験可能なのか、それとも誰にも理解できないものなのか。孤独が殺人の動機になるのか。孤独と対峙したから彼は人を刺したのか。人との繋がりを取り戻すために?殺人さえもコミュニケーションの一種だったのか。

 

ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリの言葉。

死が全てを解決する。人間が存在しなければ問題は起こらない。 

 

いや、いや、僕はそういう解決を望まない。