無罪を訴え44年!運命の判決は来月…布川事件ドキュメンタリー映画が公開!

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無罪であるか、有罪であるか、それは知らない。

 

こういう冤罪らしき事件というのはよくある。冤罪であれば、国家として損害賠償をすべきで、人生はただ時間が過ぎる訳ではない。20代の10年と60代の10年、どちらがとは言えないが、同じではない。

 

過ぎ去った時間を取り戻す事が出来ない以上、十分な金額によって償うしかない。もうひとつ、冤罪を起こした無能者を辺境の惑星へと追放しなければならない。無能なだけではなく低能である、とは、かのラインハルト帝の名言であるが、このような官吏を置いておくことは、帝国のためにならないのである。それどころか害悪である。

 

ハンス・フォン・ゼークトも次のように語っている(実際はハンマーシュタインらしい→参照

勤勉な有能者は参謀本部に配置する。

怠惰な無能者は(全体の9割)ルーチンワークを仕込んで配置する。

怠惰な有能者は司令官に配置する。

勤勉な無能者は、どこにも配置してはならない。

 


だが、冤罪であるという理由で罰するならば、必要にして十分な対応とはならない。もし、そんな施策をすれば、官僚たちは怖くて何もできなくなるからだ。

 

冤罪を起こす事が罪となるなら、全ての犯罪人を無罪とするしかない。そこに苦悩も決断も存在しない。

 

ならば、冤罪は仕方ないことなのか。我々の司法が支払うべき必要なコストなのか。

 

それを安易に言い切ってしまわないためには、十分に検証をする必要がある。これは無能な政治家どものやり方では駄目である。彼らは、絶対に間違わない評価方法を導入しようとする。

 

間違わない評価方法を確立するとは、間違いを起こさない方法ではなく、間違いが起きそうな個所を全て取り除いた方法である。

 

間違いが起きないことを最大の要件とするなら、それは、問題解決が目的ではなく、間違えない事が目的にすり替わる。


昔の人は言った。人を見よ、と。


誰にも公平な規則なぞ作りようがない事を知っていたのである。だから、人を育てよ、と語った。誰もが冤罪を起こす事は怖いし、その責任を取ることも怖い。であれば、そこで誰もを無罪とするのではなく、自分自身を律する。

 

過去の判例と合致する事だけを目指すなら AI に置き換えた方がずっと堅実である。

 

冤罪を罰するのであれば、十分に検証可能で、止む追えない場合、十分に酷い有様で、無能、怠惰を未来に向けて宣言できるものでなければならない。

 

それを判断できるのは、人だけであり、決してチェックリストの羅列ではない。であれば、それを判断できるのは有能な人材だけであるはずだ。

 

しかし、無能な官吏を狩るために有能な人材を用いるのは、有益であるか、それとも無益であるか。無能な官吏を追い出すために有益な人材を投入するよりも、他で用いる方が全体から見れば有益ではないのか。

 

全ての人が有能であるなら、人間には避けがたい冤罪しか起きないであろうし、一部にだけ無能な人がいるのであれば、有能な人が人事など適切に処置して最小にすればよい。

 

つまり我々のコントロール可能なのは、無能、低能の濃度だけなのだ。絶対に許してはならないケースと、許容できるケースがある。そして、無能なものが全てにおいて無能ではないように、有能な者がある局面では無能にならないとは言い切れない。

 

無能な官吏が帝国を滅ぼさないか?冤罪された側が恨みつらみを蓄積してゆけば、枯れるか暴発するかのいずれかだ。そう考えて、無能な官吏を徹底的に暴く事をしたとしよう。その時に起きる冤罪の数々が革命への引き金とはなりはしまいか?

 

これがなるのである。無能や低能な官吏のちょっとした行いが、雪崩のように人々を革命へと狩りたてる。人民の恨みを晴らさでおくべきかはずうっと残る。それは国民性にまで昇華する。

 

結局は、国家が無能な官吏を罰する公平で間違いのない方法がないように、恨みを晴らす公平で間違いのない方法も存在しない。

 

冤罪については国家は補償をすべきである。恨みを晴らすのは、これは個々人がそれぞれ己を律し実施してゆかなければならない。多くの恨みを多くの人々が少しづつ癒してゆく、それしかない。

 

それでも癒しきれなくなったとき、時代はまた変わるだろう。

 

新帝国暦23年 記す。