ハイパーレスキュー 3号機に向け放水

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零下の中、冷たかろう、不安だろう、怖かろう。
それでも命令一下、任務を遂行する。

 

感情というのは、センサーのようなものであって、感情的になる時には、そこに何かが潜んでいる。自分の意見を擁護して感情的な論戦があちこちで乱発している。その意見には同意できない、それには欠点がある。自分の論拠を感情的なまでにこだわる時は、きっとまだ本質が見えていない時だ。

 

官邸がダメだとマスコミや新聞でさえ言う。言うのは勝手だが理由は書かない。書いてもそれは感情的なままだ。

 

対応が遅れた、だが遅れた理由は書かない。遅れたことは即ち無能の証拠なのか。無能が故に遅れたと主張するならば、その無能であることを書かねばならぬ。


遅れたから無能というのは何も語ったことにならない。無能だから遅れたが何も語っていないのと同じだ。

 

だが、人はそれで納得できる。巧遅拙速(こうちせっそく)、この言葉が思い浮かぶだけで、ただそれだけの理由で。

 

その先を考えてみるべきだ。遅れたから無能であると主張するなら、遅れていなければこうはならなかったのか、と反対を問うてみる。遅れなかったとしても結果が変わらないなら、その批判は的外れなはずだ。

 

そうやって一つ一つ丁寧に列挙して行く。その上でそう考える理由をもって、まったく別の事に応用してみる。すると、ある場合はその通りだ、許せないと思うこともあれば、同じ構造でありながら許せる場面もある。そうやって、そこにある違いが本質に繋がる一つの道となって開ける。こう意見しているが、そう主張する理由は実はこういう話でした。

 

今の僕には、官邸を批判する人は、とても浅ましい連中にしか見えない。その批判は、物事を進展させないばかりか邪魔になる。今の困難を未曾有と呼ぶ者は多いが、
未曾有だが他人事で済ませている人もいるのではないか。

 

今、現実の危機の前で粛々と放水している人たちがいる。黙々と電源ケーブルを引く人たちがいる。自分の被曝線量の累計とあと何回行けるかを計算している人たちがいる。その批判は、彼らに力を与えるだろうか。

 

政府を批判することは、彼らの何を後押しするだろうか。それを批判する感情をゆっくりと剥がし、ざくろの実のような本心を見つけてみる。その批判の奥には別の感情がある。

 

そこにはきっと何かに対する愛情が潜んでいる。だから感情的になってまで守ろうとしているのだ。

 

その感情のイメージを絵にしてみたり、音楽に、短歌にしてみれば、きっともう少し分かり合えるんじゃないかと思ったりする。そして、それ以外の方法でも守れるんじゃないか、と聞いてみるのがいい。


僕は彼らの力にはなれない。だから彼らの無事を望む。これについては見守るしかできない。

 

彼らの行動を出汁にして官邸を批判する人がいるが、僕はとてもそんな呑気になれない。彼らにとっての未曾有はそういうものなんだろう。彼らの怒りの奥にあるものとは何だろう。

 

菅直人は陣頭指揮をせよと、銀英伝の読み過ぎみたいな事を言う人がいたので、それにつられてつらつらと書いている。

 

怒りは放射線みたいなものでそのシーベルトは測量できる。心の底にある格納容器に守られた圧力容器の中にある核燃料。

 

今は何を見ても、何をしても、全部が原子炉になる。