「本人の60年以上前の記憶によっており、(広島市の)調査報告の正確性を十分に明らかにできなかった」として「今回の調査データから黒い雨の降雨地域を確定することは困難」とまとめた。
ここでは降った証拠がないと言っている。ただし降っていない証拠もないとも言っている。何故なら降っていなければ、降っていないと明確に書けるからだ。降ったか降らないかは分からない、だから次のように書く。
降ったと認められない。
問題は、次の語句を続けられるかだ。
And 降っていないとも認められない。
条件は二つ。この両方が成立する。二律背反なら矛盾。しかし、片側だけで示して判断を強いるなら、これは論理学として厳密性に欠けていやしまいか。
科学というのは条件と結果の因果関係だから、降雨域を決めるにもそれなりの証拠を必要とする。科学の要件は因果関係に関する再現性だから、なんど調査しても同じ結論となるのが望ましい。
例えば地質を検査すると降雨したと認められる物質が出る。降雨したという目撃証拠、観測事実があるなど。
ただし当時の状況は非常に混乱していたはずで、目撃証言、体験談だけでは裏付けとしては乏しい。経験の強烈さは、確かに起きた事であるし、それは未来へ残さなければならないものであるが、科学的証拠は人間に依拠してはならない。
すると、降ったと言いうことは出来ない、という結論になる。勿論、これは降っていないと言うことも出来ない、と同じ意味である。
科学的に分からないと言うことは出来る。しかし、降雨域として認めるかどうかは科学ではないはずだ。
有ったか無かったかは分からないのでここでは無かったことにします、というのは少なくとも一般の人が考える所の科学ではない。背理法にさえなっていない。
だから、科学的と言えば納得できるだろうという時点であまりに政治的であるし、時の政府が戦争をしたがために被害を受けたと考える人たちにとっては、とても納得し引き下がることのできない説明である。
一方、政府は無制限の予算を持つわけではないので少しでも費用を抑制したいはずである。であれば明確な証拠がない以上、払いたくないという方向に動くのも当然である。
このような有った、無かった問題は結局は政治家の決断に託すしかない。そこで重要になるのが次の選挙でこの判断は当選への圧力となるか、落選への圧力となるか。
状況証拠というものがある。厳密な証拠とは言えないが複数の事実からどうも確からしい、と積み重ねるものだ。その結果として、ここまでの偶然が揃うのなら犯人としてほぼ間違いない、という推論になる。つまり偶然という確率から判断しようとするものだ。
Rule #39: There is no such thing as a coincidence.
これはある集合から関係ないものを除外する手順である。犯人であるためには少なくともこれだけの条件を揃えておく必要がある、その全てを含んでいるのであれば極めて犯人ではないとは言い切れなくなる。そう推論する。
もちろん、その全てを満たす集合が一人しかいないとは限らない。一般にその可能性を数値化する努力はされていない。だから状況証拠というのは難しい。人間の印象は明察な場合もあれば出鱈目な場合もある。それはモンティ・ホール問題を見れば明らかだ。
ましてや状況証拠が1や2つ満たした所で犯人と言えるわけがない。そういう時に、「科学的」という言葉を使うと何かしら確からしいという気がしてしまう。ここに問題の核心がある。つまり、これは科学の問題ではない、これはいつの間にか、信じるかどうかの問題(信仰)にすり替えられているのである。
科学は宗教から生まれてきた。これはその先祖帰りである。