実写版「パトレイバー」特報映像が公開!

 

 ロボットものはある意味プロレスであって、そこにはお約束がある。その唯一の点はこんな巨大な二本脚の乗り物が何の役に立つかと言う所である。そんな非現実性は押井守だって死ぬほど分かっている。(物理的に可能かどうかは未来の技術で済ませる事ができる)。

 

アニメでこれを描くのは簡単である。物理学を意識的に無視できる世界だからだ。しかし、実写となればそうはいかない。物理法則を全く無視するならファンタジーになる。

 

ロボットファンタジーの傑作にダンバインがあるが、この作品では逆に物理法則に従わなければリアリティを失いかねない地上の戦闘を持ち込んだ。そこが凄まじい。

 

いずれしろ、ロボットはお約束さえ飲み込めばリアリティを持つ。それが出発点である。

 

そこから一歩進めば、実写でやる理由は何かになる。アニメではないリアリティが見たいという欲求しかないはずだ。所詮、実写の人間は「絵に描いて動かすなんて簡単だ」と思っているし、アニメの人間は「あんな素人の演技を集めて、よく表現だなんて言えるな」と思っている。

 

その間の架け橋になったのがCGである。パシフィックリムを見れば分かるようにロボットのリアリティの肝は背景にあった。海、街、都市、そういう風景に溶け込む圧倒的な説得力、そこに意識的に突きつけられる現代との違和感。

 

その世界の中で人間がどう行動しているかを展開しなければ映画としての面白みはない。操縦だけがロボットのリアリティではない。アニメならそれで十分であっても、実写となればそうはいかない。

 

だからパトレイバーのリアリティは整備士に掛かっているし、その背景にいるエンジニアの存在が必要である。そういうエンジニアリングがあるのなら、工学にもその研究分野があるはずだし、監督省庁にもそれを専門とする部署がある。当然ながら法律もあるし、重量税だって必要だ。輸出もあれば、輸入もする。生活の中に溶け込んでいなければならない。そういうものをひっくるめてのリアリティであって、漫画ではこれがよく描けていた。

 

実写版はどうか。パトレイバーは一応10mくらいのモーターのお化けである。どれだけ軽く作っても数トンはあるはずだ。4トン以上10トン未満?だとすれば、トレーラーに載せて走ると時速30~40kmが限界速度だろう。幹線道路以外の移動は難しい。首都圏なら渋滞は当然である。

 

だからパトカーの変わりにレイバーが出動ってのは常識的にはありえない。東京の晴海を昼に出動したら赤羽に着く頃には日が暮れている。

 

もちろん、この辺りはお約束でいいのである。作品の根幹にかかわるからである。だからトレーラーの移動シーンを描くのは注意しないといけない。スピード感がある方がかっこいいと思うなら、確実にリアリティを失う。

 

あんな速度で飛ばすトレーナーがいたら、そりゃ物理学違反だ。タイヤの大きさだって特注物である。荷物が車の上で動き出すんだもの。その時に係る力は自重の数倍であろう。

 

整備士のシーン。パイロットが乗る場所は地上から5~6m上にある。どうやって乗るんだ。そんな所に脚立で乗り込むなんてありえない。命綱だって必要なはずだ。落っこちない為には。

 

立てて整備するのもどうか。上からクレーンで吊り下げておくとしても地震とかヒューマンエラー考えたら怖い。何かあったら何トンもの鉄の固まりが倒れてくる。こわい。怖いと思ったら安全にすることを考えているに決ってる。警察はそんなに馬鹿じゃない。

 

頭部の整備するのに整備士を数十mの高さに吊り上げて作業するのかしら。普通は寝かせてやる。そしたら倒れない。それだけで事故の可能性がぐっと減る。立てたまま整備するのはガンダムの悪癖。マジンガーからの伝統。

 

もちろん、こんなことを考えていたら実写にならない。寝かせたままの整備じゃカッコ悪い。背景が大切とはそういう話だ。だったら立てたままやる理由がいる。

 

作品にリアリティを与えるのは、寝かせたイングラムじゃない。それを整備している人や整備に使う道具、格納庫の全体設計。そういう諸々の存在が、その背後で培われてきたものを観客に暗示する。研究であるとか社会の在り方が見えて来ると言う事。

 

そこに登場するひとつのオリジナルの道具にさえ、その背景には工学があり、企業があり、製造があり、販売がある。架空だからこそそういう未来図を感じたい。

 

37mmリボルバーカノン。F-15戦闘機についているのは20mm。37mmm はM3リー中戦車の頭に乗っかている砲塔と同じだ。街中で、人の乗っているものに向かって、鉄の固まりを打ち出す。これはない。実写なら絶対ない。

 

ゼリーとかの弾丸ならまだ有り得るけど、鉄はない。外れたら人が死ぬだろう。問題にされるだろう。大臣の首が飛ぶはずである。そんなもの許可するわけがない。街中で洗車が実包を撃つ出す映画はどれもこのリアリティを突破するための工夫を入れている。

 

だが街中で打ちたいだろう、そんなシーンが見たいだろ、そうでなくちゃ実写にする意味がない。ならば映画を支えるリアリティは全てここで嘘を付くため、と言っても過言ではない。これがないならパトレイバーなんていらない。そういう観客の期待も裏切れない。そのための架空である。設定である。

 

リアリティも嘘も全ては如何に観客を物語に中に引き摺り込み、その中に居させ続けるかである。この辺りが映画製作者の楽しみなんだと思う。それらがしっかりしていればレイバー同士の捕り物だって安心して見ていられると思うんだ。