声優と女優……唯一無二のポジション確立した戸田恵子

サル顔でイモ俳優の小栗旬くんは、止め絵ならば抜群の存在感を示すのだが、もう動いたら問題外の大根で、この演技に耐えられるならば、どんな邦画でも面白く見られるだろう。 

動いた演技は腐っている小栗くんだけれど、それでも映画の主演を張れるのは、彼の声が抜群に良いからであって、声の演技が演技のかなりを占めているように思えるのである。つまり、彼は声優としての能力が極めて高いと言える。

日本の役者の演技では、体躯の表現、顔の表情などはまともに勉学している人が極めて少ない状況にあって、ほどんど持って生まれた才能だけで乗り切っているような所がある。

ちょっとした演技派と呼ばれるのは、太ったり痩せたりでにーろの二番煎じばかりだ。

つむぎのCMをやっている三谷幸喜など、あれで学生とどかちんと老婆を演じ分けているつもりなのである。もちろん、演じ分けている。きちんと意識して、動きの違いを出している。そこそこ見えている人間だから、演技としてはあれで良い。教師の見本としては最高だろう。ある種の演技の模範解答としてはその工夫は見事に魅力的である。三谷幸喜は詰まらないが。

それと比べれば、小栗旬くんのそれは演技ではない。それでも十分に主役が成立するのは声だ。声の存在感が抜群だから演技なんぞどうでもよろしい。そういうタイプの俳優は極めて多いように思える。これは別に声優が下という意味ではない。

日本の演技における声の重要性はどれほど指摘しても尽きない。これは日本の映画がサイレントという伝統を持たないからではないか。おそらく西洋の俳優は、少なくともサイレントを知っている。極めて優秀な映画が歴史としてあり、それが成長の過程で避けて通れないと思われる。

チャップリンをはじめとしてマルクス兄弟、キートンなどサイレントの名画はいくらもある。白黒で既にノイズだらけの映像であるが、それでも十分に魅惑的である。

さて。

戸田恵子といえばイデオンイデオンと言えばコスモスに君と。 でもこれもいい。 

 

ガンダムなら、いまはおやすみ。この話中で重要な心理的、背景的描写を司るこれらの曲は、多くの人が語っているとおり、たいへんに有能なのである。

更にはイデオンにおけるカララの役割も大変に重要なもので、すると当然にハルルを演じた麻上洋子の重要さも高くなるわけである。ハルルの悲痛こそがイデオン通奏低音ではないか。このふたりを主軸としてそれ以外はぜんぶ端役とさえ思えてくる。

イデという存在さえも二人の確執、悲しみ、絶望と比べればまだ幸せな選択だったのであるまいか。人は分かり合えない。だが、分かり合えなのは、愛しているからではないか。

ゆえに、誰も愛せないイデが世界を滅ぼす。そういう話ではないか。

アニメにおける演技は動画が担当しているが、声優の力量も忘れてはならない。声の演技さえあれば十分であるとさえ言える。その声優の中でも筆頭にうまいのは富山敬であると常々思っている。どれほど多くの主役を演じてきたか。そのどれひとつとして同じ人格がないことの凄さ。