「見ず知らずの赤ちゃんを触る」行為で論争 衛生面での不安も

news.livedoor.com

 

知らない人の定義が違う。

 

人間が未知のものについて、何も起きないだろうと考えるよりも、何かが起きるかも知れないと予測して、そのための準備をするのは当然である。

 

知らない人を前にしたとき、その人がいい人なのか悪い人なのかは分からない。だから、悪い人の前提で対応するのは当然の心理と思われる。

 

仮に相手が良い人であったとしても、知らない以上、悪い人として対応をするのは当然である。それはパスカルの賭けと同じで、どちらかに賭けるなら、より得になる方に賭けるべきなのだ。

 

つまり、良い人を想定して悪い人であった場合と、悪い人と想定して良い人であった場合を比べれば、悪い人と想定しておく方が得になる。

 

だから母親がいきなり自分の子供を触られたら警戒するのが当然。当然というなら、猫の子どもだって、そういう事したら親猫に引っかかられる。熊だったら間違いなく八つ裂きにされる。

 

母親(父親でもよいが)はそういう警戒する生き物である。これは万物の当然である。

 

すると、触る側の心理は如何である。触る側の心理がどういうものかと言えば、大部分は善良な人である。よくクライムサスペンスにある「I am not a monster」 ってセリフがそのまま通用する。だれもが自分の善良性を信じている。たいがいの人はそれを前提として行動する。

 

もちろん、誰もがその自覚だけで見知らぬ人に触るはずもない。それが通用する大前提として、いまいる場所が自分の所属するコミュニティであるという認識が必要になる。

 

同じコミュニティであれば、お互いが知り合いになる。そして同じコミュニティであれば、顔を知っていなくても、お互いに触る事は自然なものとして認識される。

 

例え初対面であっても、同じコミュニティに属する者はすぐに打ち解けあえるのはどの社会でも共通する人間の性質である。

 

という事で、触られた人と触る人の間に、コミュニティに対する齟齬があった。それが第一の指摘点であり、その次に、触られた人が同じコミュニティにいると感じられた何かがあったという話にもなる。例えば、その人の娘に似ているとか。

 

悲しい事に、一方通行のコミュニティがここでは形成された。お互いの距離感も接近する速度も違っていたという事だ。特にデパートの中や電車の中などでこういう話は起きやすいだろう。そういう場所は同じコミュニティが形成されやすい環境である。更には若い人と高齢の人という世代間でのデパートに対する感覚も違うだろう。

 

デパートにいるだけで信頼性が高まる時代に生きた者と、イオンの単なる拡張版程度にしか思っていない世代の人の間にも断絶がある。だが、こんな断絶でお互いに敵対したり悲しい目に合うのは決していい話ではない。

 

こういう分析が進む事によって、お互いの間で礼が次第に形成されてゆくはずである。そういう働きを孔子は非常に尊んだ。それは今の我々の時代も変わらない。それが単なる両者の誤解である、という認識が大切だと思う。