「あかつき」金星軌道投入に成功!初の観測画像も公開 JAXA

これについて失敗に対するスタンスとして別の観点からの意見があった。

『日本の技術開発のサクセス物語は、明治維新から一貫して貧しさが際立つ。乏しい資源をいかに創意工夫で補い、一点突破で成果を上げるか、という物語。今回のあかつき、はやぶさ2はやぶさ1、H2ロケットも。MRJも。遡ると零戦、大和も。プロジェクトX的な逆転劇狙いしか選択肢がないのが悲劇。』

『だって、あかつき、本来ならメインエンジン壊れた時点で計画失敗なのを、無理に姿勢制御エンジンを長時間ふかして突入する作戦でしょう。技術的に無理なことを敢えてやる、それは本当に正しい選択か? 無理押しする傾向が、戦争中には特攻につながり、いまは原発再稼働につながっていると思う。』

もちろん、貧乏だから工夫しなければならない。工夫の中には、ちょっと危険な方法しかない場合もありうる。そういう所に対して、成功すればチャレンジともてはやし、失敗すれば税金の無駄だとか、無謀であることは最初から分かっていたと落としこむ。

そういう日本での短絡的な態度へのアンチテーゼとしてこれに反論するのは難しい。つまり、失敗しても再チャレンジする態度は、そのまま特攻してでも戦争を続ける態度と同じではないか。無駄と知りつつ公共事業を止められないのと同じ構造ではないか、という問いかけである。これに反論するのはなかなかに難しい。

つまり、あかつきに限定すれば、そのチャンレンジも、長い探求の日々も確かに学術として、研究として意味のあるものであった。これは成功したからではなく、仮に失敗しても研究者たちが培ったものには意味があるという点でだ。

しかし、失敗と分かりつつ、撤退も出来ず、ずるずると続けるものは、この社会において、如何に多いか。既に破綻しているにもかかわらず、破たんしていない風を装っている制度のなんと多いことか。

では撤退の研究こそが足りないと言えるのか。しかし、誰が正しい撤退というものを決められるのだろうか。

確か、毎日の記事だったと思うが、吉田所長のもとには、毎日、重要な報告も、些細な報告もすべて上がってきたので、彼を疲労さえ決断を鈍らせたというようなことを書いている人がいた。

しかし、あの時点で誰に重要かどうかを判断できたのか。自分が些細と思う報告が決戦の雌雄を決するほどの情報ではないと、なぜ言い切れるのか。そのような判断力を持つものがなぜ所長になっていないのか。

誰も未来など決められない。だから試してみなければ分からない。科学であれ、災害であれ、政策であれ。その中でどれを止めて、どれを継続するのか。事業仕分けでさえ、あれほどの混乱と短絡的な批判が起きたのである。

どれほど議論を重ねても両者の溝は埋まらなかったのである。ほとんど、サイコロを振って決めてもあまり変わらない結果ではないか。

と言うときに、このあかつきの流れがそのまま特攻に続くのではないか、という懸念はある意味で、考えなければならない問題であろう。そして、そこにたぶん答えはない。

あるとすれば、学問、研究は失敗の許容が大きいカテゴリーに属し、戦争は許容が小さいカテゴリーに属す、という違いしかないだろう。

失敗を認めなければ停滞しかない。失敗とはリトライする残り回数の事であり、それが0のとき、失敗と呼ぶ、リトライできる限りはそれは失敗ではない。Falseな結果でしかない。

そして特攻でさえ、もしあれで勝利できていたならば、正しい戦い方であったと評価されるだろう所が恐ろしいのである。未来への取り組みや決断を、過去が決定する。一度きりしかない決断を、一度きりの結果が決定する。だら、終わっていないならば、リトライできるはずである。

つまり、特攻でさえ、あそこで終わらなかった。戦争が終わり、新しい世界体勢の中で、リトライできた、という話がある。だが、もちろん、死んだ人たちはほぼ無意味であったとは言える。特に戦争の趨勢に対しては無意味であった。

ただし、その後の日本の色であったり、他国から見られる姿に対しては恐ろしいまでの修飾となっている。あの人たちが精いっぱい、操縦桿を引いてくれたおかげで戦後の日本は、そういう姿で見られることになったのである。

だからといって敗戦について良い評価をするなどあり得なくて、どう考えても軍部は無能と呼ぶべき人材であった。なぜ、彼らは無能として振る舞ったのか、こそが問題であって、彼らが無能であったは結論にならない。もし無能なら、何が無能か、なぜ無能があのような重要な地位を占めたのか。

そういう研究が圧倒的に不足しているから、あかつきの失敗でさえ、疑問を呈す人が出てくることになる。いや、違うんだ。これとあれは違うんだ、と言うべきか。そうだ、それは確かに同じだ。しかし、こうこうこういう理由で、別として考えても良いのだ、という辺りがまだカオス真っただ中にある。この国は。

失敗した、挑戦した、上手くいった。しかし、明日は分からない。だが分からないことを理由に、この一時の成功を喜んで悪いはずがない。少なくても手順を踏んで、こうすればこうなる、という事がその通りに起きた。

いずれにしろ、僕たちにはあかつきを放棄するのか、継続するのかを決断する立場にはなかった。ある意味、寝かせておいたのだろう。そこに、食らいついた研究員が光明を見出した時に、再起動したという感じだろう。

成功も失敗も彼らの手にある。もちろん、税金を払った分(250~500円くらい?)くらいは、僕たちにも喜んだり落胆するくらいの権利はある主張してもそう悪い話ではあるまい。