文春はベッキー追撃の手緩めず、合い言葉「レッツ・ポジティブ」暴露。

言論の自由は当然ながら権力に対する市民の権利である。よって、権力のある側がそれを犯してはならないのであって、それを逆に言うなら、権力はその権利を十分の踏みにじることが可能である。

技術の発展によって、市民革命などというものがすでに不可能になりつつある。鍬だの鍬だのをもって、政府を打ち倒すなどフランス革命やアメリカの独立くらいまでで、それ以降では不可能であるし、日本においては一揆ていどがせいぜいである。

近代国家はこれらの権利を踏みにじることは許されない。許されないとは正当な理由を失うという事であるが、当然であるが、踏みにじった所で政府が倒れるとは限らないのである。

さて、権力を持つ側とは通常は国家権力を指す。そのため、出版社は自由を守られる側であって、その限りでは政府に対して何を主張しようが勝手なのである。

ところでベッキーは政府ではないから、何を言われようが出版社の言論の自由を尊重する必要はない。それどころか、この場合では出版社の側が権力を持っているとみなせないこともない。

もし出版社が権力をもって言論を振るうならば、市民の側にはこれに対抗する手段が必要なはずである。このあたりについては、フランスのテロリストは、体と火薬を使った直接的対話を試みたのはご存知の通りである。

そうでない場合はどうふるまえばよいであろうか。出版社や新聞社が人間の権利を蹂躙したのは、枚挙にいとまがない。例えば、サリン事件の最初の容疑者の方への扱いは到底容認できるものではない。

その罪に対して出版社が取ったことは単なる謝罪であって、これはとてもフェアとは言えまい。このあたりの関係性や思想はよくわからないが、当面は民事で対抗するしか手段がないはずである。

ではベッキーがこの記事に対して対抗するならば、もちろんであるが、民事で文春を追い詰めるしかない。その方法論としてどういう法的措置があるかは知らない。

だが、出版社を倒産に追い込む程度の民事訴訟は起こすべきケースだってあるように思うのだ(この件ではない)。

文春も不倫ごときで言論の自由を主張しているのでもあるまい。すると今の文春はどういう社会的正義で、こういう記事を流しているかと言えば、当然ながら正義の問題でなく、売り上げの問題である。

ただしこの戦いは規模の上でも人材の上でもフェアな対立とはいえない。多勢に無勢という様相があって、これじゃ一方的なリンチでもある。リンチと報道の差はどこにあるかといえば、言論だからリンチではないなどとは言えない。

フランスが第二次世界大戦に勝利したときのフランスの男たちの恥ずかしさは、多くの女性が髪を切られた映像からも明らかである。自分たちは戦争に負けておきながら、銃を手に取り死にもしなかった男が懸命に生き抜いた人をなぶる。

その瞬間は正義であると思ったであろう。そういう正義はある。だが、それが明日も正義とは限らない。

ただし、芸能人とはプライバシーを切り売りする商売であるから、あんがい、情報を流出させたのは当人であるかも知れない。もともと勘の鋭い人たちは、怪しいと睨んでいたようである。基本的に逞しい人なのかも知れない。