失われる「安かろう悪かろう」「安物買いの銭失い」の精神

呉智英の面白さは、特異な視点にあると思う。だけれども、特異なだけでは不十分であって、その切り口をユニークなユーモアで表現することだろう。ユーモア8割、主張2割くらいな所にあった。

あった、と思うのは、学問にまじめになりだしたころから、フザケタとさえいえるほどのユーモアが失われてゆく。それは面白さを失ってしまい、そして、そうなると、その主張もまでも、少し変わっているけれど、言うほどに特異でもない、という印象になってくる。

人と同じ地点には立っているわけではないけれど、だからといって遠くにいるわけでもない。それは十分に聞こえてくる範囲にあって、ではどこにこの人の面白さを見つけようか、と思っているうちに、次第に遠ざかってゆく。

もちろん、ここにあるのは彼の手になる文章ではなく、彼のコメントを部材として記者が自由に組み立てた姿であるから、ここにユーモアがないことを彼の非とすべきではない。

それでも、この主張のどこに、変わった視点があるだろうか。かつては、冷蔵庫も物流技術も未熟だから、モノを見抜く目が消費者にも強く求められていた。それを学ぶ場所は、基本的に店頭であって、そこが生きた学校となった。

次第に物流が発達し冷蔵技術が発展すれば、目をつぶって取ったとしても、悪いものがないほどの高度な品質を提供するようになった。だから見抜く力が失われたのも自然である。

しかしバブルがはじけて経済が停滞することで、デフレ下に置かれた。次第に販売する側も辛い決断をせざる得ない。それでも一度確立した高度さ、信頼性は失われなったのである。

だから誰もが吉野家が200円程度で牛丼を売ったとしても、多くの人は疑うこともなく牛丼を食べたわけである。

一般的に価格の中には、原材料、場所代、運送費、店員の給料、本社への納金、研究費、株主への配当金などが含まれている。ひとつひとつの値段は小さくとも、それを個数の積を取ることで確保しているのである。

原材料費を安くするには大量購入や、海外での入手などいろいろな手を使う。それでも、例えば放射能汚染したりとか、発がん物質で汚染されたものではない、という信用があったはずである。

なにか工夫したに違いないが、いずれにしろ、それは信頼を失うようなものではない、というのが前提として社会が成り立っている。だから、食材の転売した人たちも、今のところ、直接的な被害は起きていない、社会的に抹殺されるのである。それは商道徳を踏みにじったからでも、悪人だからでもない。

もしそういう人々を許せば社会を支える信用を失ってしまうからだ。それはアノミーを生むだろうし、コミュニティそのものを崩壊させる。その意味では、彼のしたことは、反社会的組織よりも悪い。反社会的組織もまた、こういう人はここまではやる、というお互いの信用の中で成り立っている。

小泉とクズ平蔵によって行われた規制緩和は、経済というよりは、資本家側に重点を置いた収益の向上策であって、つまり労働者など使い捨てだとみなす。当然ながら、労働者が市場を形成するのであるから、労働者を大切にしない企業が、それを売る相手である消費者を重要視するはずがない。

そのひずみは、まず力として全体を押すようになる。全体の中で、それを最初に受け、最初に倒壊するのは、当然ながら弱い場所、そして、無防備であったところである。

通常は、そういう点が崩壊しないよう、手当てをする。具体的には、金銭の補助であったり、規制による回避である。こういうものを取っ払った以上、誰もが、生き延びるための行動が最優先されることになる。

自分が生き残るのに、他人を蹴落とすのは当然であって、全体がそういう風潮に陥ったのだから、企業と言えども信じるには足りない。

そういうモノの見方もあるだろう。だが、ここの人間の中には、お互いの中で、よき関係を築きたいという生まれながらにもった、不思議な性質がある。これを性善説というなら、当時に人の中には、他を蹴落としてでも自分は上に行きたいという行動もある。この性善説性悪説は同居していると言える。どちらかが正しいという話ではない。

さらに言えば、それを善と悪とみなすのは、シマウマがライオンに食べられたら可哀想だが、ではシマウマを取れずにライオンが餓死するのは可哀想ではないのかという話がある。+とーに善と悪というレッテルを張るのは、必ずしも正しいとは言えない。

立ち位置が変われば光の色さえも変わりうる。ならば善も別の場所から見れば悪に見えても不思議はない。

若者がバスのスキーツアー行くのに、バスを信用できななら、そりゃ初めからそんな選択をしたはずがない。それを見抜けないのは、本当に、消費者に見る力がないからなのか。

出発前にこれはやばいと思った人もいるかも知れない。だが、それを言わなかったのなら、それは犯罪ではないのか。それは事故を起こした人の共犯ではないのか。

当然ながら死んだ運転手だって死ぬ気で運転したのではあるまい。自殺する場所をあのカーブと決めていたはずがない。どうしてこんな不幸が起きたのか。

もしそれが構造的に起きたのならば、それは改善できる。ただし改善しても事故はなくならない。ただ、小泉とクズ平蔵がこの事故の遠因であることは間違いない。彼らの改革が生んだ事故である。そういう意味では遠因ではるが、直接の加害者はあの二人に尽きる。

そして規制緩和によって起きた事故は規制という事前の策で防止できなかった以上、起きたことについては責任を取らねばならぬ。それは重くなければならない。刑事であれ、民事であれ、重く処罰する必要がある。

そういう社会的バランスを整えることなく、社会的改革を行ったバカどものつけを名も知らぬ我々がとり続けているとさえいえる状況であろう。