東京新聞「高嶋ちさ子さんの子育て日記」 子供の携帯ゲーム機をバキバキに壊して大炎上

もうあるのかな、まだないのかな。

何かについてそれなりの感想を持つのはよい。また、そこに感情的な憤りを感じるのもいい。それはおそらく人間にとって、とても自然な反応なのだ。

錯覚の科学で講義されていたが、人間とは進化の過程で情報処理の高速化を実現してきた。そこでは通常では起きえないことは初めから考慮しない仕組みを作り上げた。

ところが、それが錯覚の原因となる。しかし、人間にとって、トラに襲われた時に、とっさに生き延びるための速度のためになら、錯覚は十分に許容できる仕様である。

よって、自分の認知に対して、何等かの感情を持つことはとても自然だ。当然ながら、一見は百聞に如かずということわざを知っていようとも、新聞の記事から、思い込みが募り、憤りを感じるのも自然である。

人は何かを守るためには咄嗟的に行動する。これも自然の理であって、自然の驚異から子供を救うには、あれこれ考えている暇はない。

会話どころか、相手を見たこともない人に対しても怒りを感じるというのは、人間の性善説のひとつであろう。僕たちがアフリカで今にも死にそうな子供について心を痛め、少年兵の悲惨さになんとかしたいと思うのとまったく同じ感情の発露である。

そしてインターネットという入力情報の少なさに対して、応答のコストが低いSNSという仕組みが現在にある以上、許せないこと、食い止めるべきことに意見を表明しようとするのも、人間の自然さであろう。

怒りにわれを忘れた人の言葉使いは、当然ながら酷いものになる。これは相手を威嚇し、恫喝することで、自分の主張を有利にしたいという事だし、相手の反撃をあらかじめ封じようというのも自然であろう。

つまり、そこに弱者を見つけ、弱者を救済しようと、とっさに行動する。言い換えれば、一人で勝手に盛り上がり、勝手に弱者を想定することで、その憤りに自分自身が絡み取られ、それから逃れるために、誰でもよいから対象者を攻撃する。

そうすることで、感情の発露が生まれ、自分の中のストレスを解消することができる。

昔から、通りすがりの人にひどい目にあうというのはあった。それを昔の人は、犬にでも噛まれたと思って、と言った。犬の遠吠えという言葉もある。どうせ取るに足らぬ生物など無視すればよいという教えである。

当然であるが、その取るに足らぬ生物が大流行して、ヨーロッパでは人口の25%が失われるのである。ねずみやペストによって。

一過性の出会いの中で悪事をするのは、どさくさに紛れて とか、火事場泥棒とかもある。要は戦後ドイツでロシア兵がレイプしまくったのと同じ構造である。当然ながら、彼らは正義だと思っているのである。

正義と言えば、十字軍がある。この一方的な正義の軍隊というものは、ヨーロッパ、アラブの歴史にも多大な影響を与えた。

いずれにしろ、知り合いでもないし、今後も知り合いではないと思えるから暴言というのは吐けるわけで、明日、営業先でその相手と会うかもしれないという当然の想像力も欠如しているわけである。

ある意味では、高等生物としては下等であるから、猿の暴言とも呼べるかもしれない。

いずれにしろ全てが善意から起きているのであるが、the road to hell is paved with good intentions (地獄への道は善意が敷き詰められている)という言葉を思いだっす。

だが、善意は感情であるが、行動は悪意に溢れている。また、情報の欠落に対しては愚かである。正義を行うのに、悪魔と取引しなければならぬことがあるか。いや、それはあるだろう。

性善説とは人間の感情を呼んだものであり、性悪説は、人間の行動を言ったものである。と考えるならば、どこかで+とーの反転が起きたのかも知れないし、もしかしたら、正義と悪は延長線上にあるのかも知れない。

いずれにしろ、こういう現象に名称が与えられて、それが人々の間に膾炙してゆくことで、こういう現象も客観的に対応できるようになるだろう。

しかし、それを一身に受け止めるのが芸能人であるのだから、これは結構な社会実験でもあるように思える。