波紋広がる…校長「義務と言ったのではない」 吉村市長「優劣つけるものでない」 麗澤大・八木教授「言葉狩りになると建設的な議論ができなくなる」

この話を聞いて、まっさきに思い出したのが、柳澤伯夫の「産む機械」発言だ。機械といえば、普通は機械の体であって、人々の垂涎の的なのだが、この世界では違うようだ。機械の体をもらえるのは喜ばしいが、生身を機械と扱われることは受けがたい。

そうかと思えば、精密機械とは漫画に登場するライバルのうちでは、ほとんど最強の褒め言葉だし、シューマッハもそう呼ばれたように、狂いがなく、疲れを知らぬ様をそう呼ぶことが多い。

ここにあるのは、機械という言葉に込められたニュアンスであって、まるで機械見たいが、正確さを指すのか、感情の欠落を指すのか、いずれにしろ、人は物ではない、という言葉の根底にあるのは、人権とは全く違った思想であるように思われる。

人権とは当然ながらの権利と考えられるものであって、その基本として、自然状態を考えてみなければならない。自然状態においても持っているものは、いかなる社会でも持っているとみなすべきである。

だから後は、お互いの契約において、尊重したり制限したりする。その過程でも、人身売買や奴隷というものも存在したのであるが、そこに異議を見出す人、それを当然と考える北部と南部の違いは何であろうかといえば、産業の成立があったわけである。

人はおのずと自らの利益に立たなければ考えられないように出来ている。損得勘定で動くものだ。如何なる思想であれ、そのために命を賭すなどということは、ヴォルテールのような人でなければ言えない訳である。

一方で人間を統計学で見るためにビッグデータを活用する。そこでは人間は単なる数値化されたものにすぎず、その数字の流れの中から何かを見出そうとしている。喜んでカードを使っている人は、もちろん、その見返りとして、自らの情報を与えている。相手はおくびにも出さないが、ビット扱いされているのは間違いない。

統計学で見れば、日本の人口は衰退するのであるし、ひとつのカップルが二人で構成される以上(ちょっと未来の特殊な繁殖方法はここでは除外する)、二人生めば、とんとん、それ未満ならなだらかに下降、それ以上ならば、上昇というわけで、ここでの議論は純粋な算数の問題に過ぎない。これだけならば、誰もが、納得する帰結である。

算数の問題に男女などというパラメータを導入するから、話がややこしくなる。鶏のブロイラーではあるまいし、産むために存在しているなどと言われたらそりゃ気を悪くするのは当然である。

特に今の技術では女性しか産めない以上、それにかかるリスクもコストもすべて女性に押し付けているのが実情であろう。国からして幾らも払ってはいない状況である。

一万年前ならば、もしかしたら、その区別は上手くいっていたのかも知れない。食糧を巡る活動の中で効率と安全というコストが生み出した解がある。それは社会変化、技術変革にともない変わるのが当然であろう。

一体、いかなるパラメータがこういう流れを推し進めているか、それは知らないが、先進諸国が全体的に、少子化に向かうのは自然な話らしい。そこには何かがあるに違いない。

一方で国力を考えれば、人口はそれだけで力であって、少子化を食い止めようと憂慮するのも分かる話だ。

問題は誰がその当事者であるか、という話である。当事者に権利がある。これが近代のひとつの到達点であって、当事者でないものは、そこに意見する権利は有していても、強制する権利はない。

せいぜい、お願いする、お金を支払って契約する、それくらいしか、人を動かす方法はない。

なぜなら当事者はそこで起きる問題と対処するが、そうでないものは、しょせんは他人事であるから。どこまでも付き合うといったところで、よく男が口にするセリフである。一生あなたを守りますから。

あなたが死ぬ前に私が死んだらそれでもいいが、あなたが死んだあとはどうするというのか。そんな自己満足な話をされても、それはあなたの都合であって、私にはある意味、まったく関係ない。結婚式の当日に死ぬ男もいるのである。

いずれにしろ、この校長先生の真意は炎上している人たちが思うほど悪い考えをしているのではないだろうし、現実に即して考えたつもりであろう。

だが、これは言葉が悪い。何が悪いって、『女性にとって最も大切なことは』。

「最も」は通常は強調表現であって、ブチとか、マジとかと同じ表現である。しかし、「最も大切」とくると、これは、価値の取り決めとなってしまう。

問題は神でもない人間がなぜ価値の優劣を決定できると思うのか。おそらく校長先生からすれば、これは社会通念のひとつを取り上げて、それを強調したに過ぎないであろう。

しかし、この言葉使いでは、間違いなく、価値観は俺が決めた、君たちに反論する余地はない、と聞こえる。最も大切という以上は、そういうものだから、基本的には、どーでもいい事を後ろに続けるのが正しい日本語というものだ。

「最も大切なのことは、今日の晩飯をどうするかだ』くらいまでである。

この多様で変動している時代に、これでは問題である。主張したいなら推敲すべきであったろう。だいいち、中学生女子に向かって産め産めというのは、ちょっと気が早すぎるだろう。

という事は、こういう中学の校長先生までは、日本の未来を疑問視しているという事が、この記事が持つ、最も重要な点ではないか、という結論に至る。

崩壊の始まり、崩落の前兆、激動の日本史が始まるのではないか。という気もしないではないが、戦後の高度成長があまりにバカバカしすぎた祭りであって、ようやく祭りの後になったという気もしないではない。

暗雲が立ち込めているだけではすでにない。今にも降り出しそうな感じをこの校長先生も持っているに違いない。

「東風になるね、ワトスン」

しかし、このセリフをかみしめるべきはこの国の誰であるか。