結局のところ、日本の「武士道」とはなんなのか=中国メディア

その内容が思ったよりも充実していた。武士の発生から、その変遷を、歴史の流れの中で押さえていて、驚愕した。

日本人である我々は武士道を知っている、または分かっていると思っている。当然だが、武人というのは飛鳥時代よりも前から居たし、天皇中心の政治から、貴族中心、そして武家中心へと変遷した歴史の中でその立場も権力も変わっていった。

切腹という所作が既に平安時代には登場しており、それが次第に人々に説得力を持つに至る。切腹の作法が完成するのは江戸時代に入ってかららしい。

武士道という考えがあるが、「道」という概念は日本の歴史の中では比較的新しいように見える。茶道、華道が戦国時代に完成したが、どうも室町末期から江戸初期に完成した人生観のようなものが、当時の時代背景と無縁とは思われない。

この時代において特徴的なことは、仏教などの宗教がすでに完成されて、そのリファクタリングも新しい宗派の誕生にもエポックさは見当たらない。

という事は人々の中で何かが熟成されほぼ完成されたと言えるものがあったというう事だろう。その代わりに文化的なものが多く生まれている。仏教の感性を種とするなら、ひとつの花が咲いたようにも見える。

武士道の感性が江戸時代であることは間違いなく、記事にもあるように、武士という武力集団を如何に、官僚に教育しなおすかという点が独川時代の画期性だったのである。

そこで多くの人が指摘するように、武士道にひとつの型を与えたものが、忠臣蔵であることは間違いないように思われる。それは忠と公を矛盾なくひとつの形式にまで昇華したのであった。

敵討ちは従来の武士にとっては忠であり、殉じるべき主君への忠誠である。これを否定されては、武士の存在理由を失う。つまり、ここで、これを否定すれば徳川幕府はその根底から価値観を失い瓦解する恐れがあったのである。

一方で、仇打ちは世間の動乱を招く恐れがあった。それは徳川幕府が苦労して成立した根拠を失うことになる。戦国の世を納め平和を齎す行為も看過できるものではなかった。

つまり世間の人たちからすれば、日常にあった武士観、それはある意味では正義であり、正しさそのものに対する社会規範の真っ向からの対立であった。この対立をどう処理するかは、その後の幕府の生存理由を根本から揺るがしかねないものであった。

柳沢吉保の相談を受けた荻生徂徠が語る。彼らの敵討ちは忠を全うするものであるから、これはよき行いである。しかし、彼らの行為は幕府の法を破ったものである。ここにおいて、彼らは罰しなければならない。ただし、それは尊敬を以って罰するべきである。

こうして彼らは名誉のある罰を受けることになる。多くに人がここに納得したのである。忠も守られた、公も守られた。というわけである。これは武士道にひとつの規範となる。

もともと利害関係であったはずの武士が、平和裏にあって、利害ではなく、忠という形而上的な価値観に殉ずることができるようになった。これは武士が変革したことの結実だったのである。

公よりも優先すべき私というものはある。それは必ずある。故に私として行動するのは良いだろう。しかし、その行為が終わった後は、ただしく公に戻り、公としての処罰を待つべきであると。

武士道である限り、それは支配する側ではなく支配される側の道である。そして江戸時代の社会の規範は、当然ながら、将軍までを含めて、全員が社会の規範の下に存在していることになる。将軍だからといって好き勝手ができた分けではない。

江戸時代があれだけの長きに渡って知性を保てたのは、将軍に力を集中しなかったことにあるだろう。それは老中を中心とした組織による運営があったことが大きい。しかも、老中も絶対権力ではなく、時世に合わなければころころを変えられるほど危うい立場しか得られなかったのである。

絶対的な権力者を持たない政体は長続きする。このエッセンスは形を変えても民主主義の中核の理念として残っているはずである。

もちろん、武士は軍人ではない。とくに近代以降の軍人とは職業軍人であって、戦車道というものはあっても、軍人道など存在しない。

つまり、武士道を考えるとき、必ず道という思想に行き着く。道の本来の思想はタオ、すなわち老子の思想であるが、これがなぜか日本では形を変えてゆくわけである。

今の我々の知識でタオを解釈すれば、間違いなく物理法則という解釈に行く着くのである。彼らが追及したものにもっとも近いのは科学であろう。しかし、少し違うのは、科学をいくら学んでもどうやら人間の生き方や真理は見つかりそうにない、という事である。

これはキリスト教から科学が生まれたのも同様であって、神の真理を追究していった結果が、どうやら原子であれ量子であれ、宇宙であれ、その動きは数式で書けそうである、という所である。

まさか、神の言葉とは数式だったのというわけで、それは認められないという話が科学と宗教の間にあるのは仕方のないことである。

一方で日本の道という考え方は、たぶんに生き方の追及になるのであるが、しかし、柔術が柔道となった歴史を見れば、いかに暴力を社会の中で抑え込むjかというものが、道と結び付くという事も見えてくるわけである。

道がもし社会の要請だとしたら、老子のイメージとはかなり違う。彼らは個人で道を追究し、ある意味では社会を超越したような感じがある。しかし、実際の道と名付けられたものは、どれも社会の中に存在し、その中で何か真理を追究するかのようにあるわけである。

もちろん、柔道をするのに、道を考えていては金メダルなどとれはしない。スポーツというのは純粋な物理学以上のものではありえす、人の道など考える暇があれば、物理学を極める方がよっぽど有益なのである。

結局、武士道とは何かと考えてもわかりはしない。いまや武士などこの世界にはいないのであるし、あえて居るというなら、それは霞が関に毎日かよっているお役人たちであろう。

かれらこそ正真正銘の武士の末裔であって、それ以外の武士道というのは、広告以上の意味など持ち得まい。

葉隠が語り、山岡鉄舟が著し、新渡戸稲造が出版し、内村鑑三が指針とした武士道というものは、突き詰めれば、滅私奉公であろう。社会に尽くすためには命さえ惜しまない。それは江戸幕府の要諦ではなく、明治政府の要請であろう。

明治になって既に失われた武士というものの中に、価値観を見出す。それは江戸時代の残り火であったろうが、それがなければ、おそらく日本は独自性を失ってしまうのであろう。恐らく彼らは日々西洋化する中に、不安を感じたはずである。

なぜなら日本に価値がないとしたら、それは世界において存在すべき理由がなくなるからである。自分たちの文化なり歴史なりに何かを見出さなければ失われても構わないと自らが思うようになれば、そこに希望はなさそうである。

葉隠の武士道と云ふは死ぬ事と見付けたりという文句も、死ねという言葉ではなく、どっちかと言えば、Jobsが毎日鏡で自分に問うた意味での死であろう。

「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」

恐らく武士道というのはイメージに過ぎない。そのイメージは、ある意味では、インスピレーションの源泉であるが、また別の言い方をすれば、その泉を掘りつくしても大したものは見つからない。

しかし、一方でその程度に過ぎないもので、多くの人が死に至ったのであるから、そこには何かがなければならない。死さえ厭わぬほどの何かを人の中に植え付けるもの。

それは武士道ではないと思う。武士道はその現象の側面の一つに過ぎない。ただ、その奥底に何かがあった。それに辿りつくための、幾つもの道のひとつであることは間違いない。と思う。