「死刑は人権侵害以外の何ものでもない」 世界140カ国で廃止、取り残される日本の課題

この人は死刑は廃止だという。では事件が発生して現場で射殺したのは死刑ではないからいいというのだろうか。死刑とは決められた手続きの上での量刑であって、賛否はあるし、当然冤罪という問題が打ち消せない。それでも法をいつ出すしているわけではないし、当然ながら法の理念と矛盾するものでもない。

現行犯逮捕を目指す日本の警察と、その場で射殺することをいとわないヨーロッパでどちらが人権に対して真摯な態度で挑んでいるのだろうか。

死刑しない代わりに裁判する権利を奪っているだけじゃないか。それで死刑反対などとよほどのバカでもない限り言えない台詞である。

だいたい犯人逮捕のときに銃撃戦が起きるとか、どれほど銃規制が甘いんだよと思われる。おまえら一度、秀吉の刀狩でも勉強してから出直して来いとしか思わない。

そりゃ現場で射殺できるなら死刑などいらない。そういう道理であって、日本は射殺は極力さけるかわりに適正な手続きの上で死刑も必要なのである。

それでも死刑の問題はただ一点であり、それは冤罪の可能性である。そして確かに日本の司法の冤罪率は多いのであろう。もし多くないのであれば、こういう海外からの批判に対してなんら動じる必要はない。

江戸時代には町に放火した女子でさえきちんと死刑にしてきた歴史がある。当時の奉行所の人達もそれに驚き死刑回避も試みたかも知れない。死刑があるから、なんでも間でも死刑とした訳ではない。

残虐さという点では西洋の歴史も枚挙にいとまがない。そういう彼らが強く死刑廃絶を主張するのはなぜだろうかという気がする。

死刑についての賛否はどう考えても、各国の歴史や宗教、文化、死生観と分離できない。

日本人の死生観は、恐らく明治以降の武士道で醸造されたものあるから、死刑に対して、抵抗感はない。下手したら死刑になる前に自殺しろと主張する正当性さえありそうなものである。

ヨーロッパのそれについてはよく知らないが、おそらくキリストの貼り付けが根本にあるのではないか、という気がしないでもない。そして、二度とキリストを貼りつけにしたくない、という思いがあるのでないか。もしこの死刑囚がキリストだったら、と思わずにはいられないのではないか。彼らの危惧は冤罪という言葉よりも、もって根深い所にあるのではないかと思ったりするわけである。

すると宗教と死刑制度の間には何等かの関係性があるかも知れない。すると面白いのは、やはりアメリカという事になって、彼らはキリスト教度であるが、ある意味、原始キリスト教的なのかも知れない。彼らは死刑囚の中にキリストの姿を見ていないのではないか。という気がする。

ここにひとつ、キリストは恐らくアラブ系の人間だったろうという推測があるのだが、彼らは、みな白人だと思っているわけである。もしかしたらキリストは黒人だったかも知れないのに。

というような人種的な問題さえも根深い訳である。アジアは幸いにして、こういう流れからは距離が置けている。それは日本だけでなく、中国も、韓国も、だいたい同じ流れであろう。

なお、死刑が抑止力になる、ならないは死刑の実施とは関係ないと思われる。また死刑によって被害者と深い関係にあった人々の心が癒されるわけではないというのも同様である。

それは社会的正義であって、被害者云々は関係しない。関係者の中にも強い復讐心を持つ人もいれば、許しを与える人もいる。だが、そういう諸々は関係しないのである。

もちろん、死刑などよりももっと残酷で苦痛を長きにわたって与える方法など幾らでもある。またどうせ死刑になるならと更に罪を重ねる人もいる。

だから死刑は不要という説ではとても説得できないのである。それが根拠を与えるのは、ゆえに現行犯で射殺するのは許される、程度の話ではないか。