くだらない人間である。もちろん、この世界は言論の自由があるから、どのような意見を持とうが構わない。それをどう表明しようが自由である。
しかし憲法という国の根幹に関して、98歳、現生に留まれる時間もあと20年しかない人間が、憲法の改正ではなく、自主憲法などと口にする。
憲法が国民を規定するのでもなければ、世界に対して我々のアイデンティティを訴えるのでもない。憲法は道具である。道具であるが、とても大切な道具である。
そこらへんを走っているレクサスみたいに、そろそろ古いから買い替えるかーというような代物とはわけが違う。そのことさえ、98歳の脳細胞では理解できまい。
家の車が古くなったなぁ、そろそろ買い替えれば、と言っているようなものである。その家には、10歳の子供もいれば、20歳の人、35歳の人などもいる大家族である。
一家の車を買うのに、98歳のおじいさんの好き好みなど真っ先に無視されるものではないか。どうせ、あと数年も乗れないのだから、と言われるのが落ちである。よほど愛されていたら、おじいさんのために、という事もあるかもしれないが、それは車の場合の話であろう。
わしはなんでもいいから、お前らが好きなものを買いなさい、これが通常ありうるべき、ほとんどと言ってもいいくらい、唯一の態度であろう。
自分の時代は終わった、次の世代が決めればいいことではないか、この一言がなぜ言えない。まだ世界は自分を中心に回っているという考え方から脱却できないのだろうか。90年以上も生きていて。
もちろん、それが彼、中曽根という人間の小さな下らない一生であることを、けなしもしないし、尊重もしない。また、彼がやってきた様々な業績を貶めるものでもない。
ただ年と取るとはこういうことなんだろう、という気だけがする。自主憲法というが、では、人類が獲得してきた様々な英知、それは近代国家の基礎となるヨーロッパの思想だけではなく、アジアの遠く2000年以上も前におきた何人もの思想家たちの考えを彼が広く深く学んできたかと言えばそんなわけもない。
勉強していない人間に限って短絡である、といういい見本である。
近代国家を築いたのは基本的人権と法治という考えであろうか。そのふたつの基礎となるものとして、自然状態という仮定がある。
自然状態に生きる人間が持っている権利を想像するところから、ではなぜ社会が構築されるのか、そこではどういう問題がおきるか、それに対してどういう考え方でそれと向かうべきか。
ハンムラビ法典からして人間の知恵であろう。なぜ目には目をなのかは、もう膾炙しており説明の必要はあるまい。同等の報復とは、それ以下では納得できないだろうが、それ以上であってもならないのである。
こういう話は倍返しだという台詞に喜んでいた人には決して受け入れてもらえないだろう。もちろん、倍返しというものには、受けた傷は、お前の考える倍はあるからな、という正当性の主張でもある。おまえは1傷づけたつもりだろうが、こっちの傷は2ある。そういう主張であろう。
また、アメリカが3000人殺されたら、中東で30万人以上を殺した例を見るまでもなく、ハンムラビ法典が語る事は、人間にそれを守る事ができないからこそ、石に刻まざるえなかった、という話である。
なお、その法典では奴隷とそうでない人の価値は異なるし、できるだけ歯のかわりにお金で解決しようよ、という方針で記載されている(らしい)。
法治国家というが、アジアにだって法治思想はあったのである。法律はなにもヨーロッパだけの特産品ではない。
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では、何が違うのか、長年親しんできたアジアの法を捨て、西洋の法をベースに切り替えたのはなぜか。その西洋の法に対して、我々の伝統的な法から取り入れるべきものはないのか。
そういう議論は多いにすべきであろう。
また基本的人権および人間の権利と同等の思想はアジアにはなかったのか、孔子、孟子、老子、荘子、韓非子、これらの人々の思想と、ホッブス、ロック、モンテスキュー、ヴォルテール、ルソーから、マディソンの合衆国憲法に至るまでの歴史はどう異なるのか、何が同じベクトルであるのか。
そういうことを研究尽くさないで、自主憲法など幼稚園のお遊戯と同じである。98にもなってお遊戯会で踊りたいなどと言う老人のどこに尊厳などあろうか。
この男は非常に下らないのである。ただ、その御年でもいまだボケていなさそうな事は喜ばしい。五月のいい風を受ければ、もう少しましな考えでも浮かぶのではないか。