正義VS正義の戦いを描く『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』正しいのはどちら?

対立に正義と悪という構造は聖書の昔からある。仏教でもそうであって、悪魔の誘惑というのが一つの主題をなしている。

この悪の誘惑というものは、もっと昔からあったのであろう、いろいろな神話で誘惑の前に負けてしまうというのは多い。イザナギノミコトの神話を持ち出すでもなく、弦の恩返しだってそういう話だ。

主体は主人公であって、悪からの誘惑という構造から、ひとつ俯瞰されて、組織的に正義と悪という対立は、アニメであれば、マジンガーZが基本的な構造の代表で、次にザンボット3が、正義と悪の逆転(トリトンデビルマンなどもある)、ガンダムで正義と悪という対立の廃止、という流れまでがひとつの発展史と言えるだろう。

故に正義と思ったものが、最後に悪であった、というエンディングのドラマは多いのである。

そういう基本構造に対して、ヒーローたちを二つに分離させてしまえというのは、思い付きはしなかったが、言われてみれば確かにその通りであって、ハリウッド映画のエンターテイメントの確保と、テーマの深みの追及、それを実現する脚本の巧みさ、邦画など滅んでも何も惜しくないレベルにある。

そのような追及を小作品だけでなく、世界的に売ろうとするエンターテイナーでさえやり、ディズニーの映画でさえやる。どれだけの人材の宝庫かよと、驚愕してしまうのである。

それは数機のゼロ戦で大量のB29を迎え撃とうとする構図と何ら変わりない。ジリ貧がドカ貧に転じようとしている邦画において、しかし上層部はいまだのんきなものである。まさに70年前と同じことが映画の世界で起きている。

さて、そういう話はどうでもいいのである。閑話休題

どちらが正しいのだろうか、といううまい煽りであるが、当然ながら結論が出ないことは分かり切っている。ということを記者も知っているようなので、おそらく、これは釣りなのである。

どちらかに結論を出していたら馬鹿にしてやろう、という不届きものを釣るためのタイトルなのであろう。それくらいは、最初の数行を読めばわかるのである。

面白いと思ったのは、「開いた正義」「閉じた正義」である。


アイアンマンを含む規制賛成派(法律派)は、一定の法律に従い動く「開かれた正義」。キャプテン・アメリカ含む規制反対派(自由派)は、あくまで独自の判断で正義を行う「閉じられた正義」。

開く、閉じるという場合、イメージとしては檻の中と外というイメージが一つにはある。開かれた市場とは通常は規制の少ない市場のことである。

もちろん、開く方が閉じるよりもイメージはいい。国境であれ、交渉であれ、閉じられるのは良い知らせではない。恋愛であれ、足は開かれている方がいいのは言うまでもない。

通常、法によって規制されたなら、それは閉じられた正義のはずであろう。どこかの機関の要請によってしか動けないのであれば、それは自分たちの行動はその機関の恣意によってなされる。つまり、やらなかった責任を感じる必要はない。

もし自分の自由意志だけで行動するならば、正義というものを語るのは自分しかいない。そしてヒーローと雖も、誤謬がないなど考えられないから、ではそのヒーローの間違いを誰が正すのか、という問題意識から始まった映画であることは間違いない。

もし正義に間違いがないならそれは神である。もし誰かが神を語るなら、その誰かが神でないことは明らかだから、彼は間違っている。よって、正義は間違うのである。

開かれた正義と、閉じられた正義という言葉は、なかなか良いが、実はこ難しい言葉である。まず意味がよく分からないのである。

多くの人の意見を吸い上げた結果に行動する、という意味で開くという言葉を使っているとすれば、民主主義が開かれた政治という意味と同じである。当然だが、トランプも開かれた政治が生み出した男である。さて、彼を開かれた正義と言えるのだろうか。

個々人の自由意志だけで決まるのを、閉じられた正義というならば、それはある意味では独裁者と同様である。自民党を倒すときに密室政治という言葉も役にたったのであるが、その結果がいまの安倍内閣に通じた。彼の大胆な政策変更は次々と実っている。そこに対話があったとは思いえない。しかし、彼の支持者がいたという点では、これも開かれた正義である。

民主主義において開かれた、という意味は多数のという意味であろう。だが、会社勤めをしたものなら、多数で決めるものほど失敗するものはない、いかなる会議であれ、だれかがイニシアチブを取り、決めて行くものである。

ハンドリングする誰かが必要である。そうしなければ何も決まらない、動きもしない。すると、正義もまたそういうものなのか、という話になる。

正義という抽象概念を実体化したものがヒーローであるとき、ハリウッドのリアリティな映像が、実体としての疑念を放ちだしたわけである。正義という空想上の概念を持ち遊んでいる間は、なんの実害もない。だが、実際にそれが実体化してしまったら、どのようなことが起きるのか。

この世界にヒーローを止められるものは誰もいない。もし、彼が脳腫瘍にでもなって、暴走を始めたら、世界はどうなるのか、

もちろん、藤子F不二雄はそういう類の話をウルトラスーパーデラックスマンで書いていたりするわけである。

答えがないから、題材になる。しかし、この行き着く先は、断崖しかない。そんなことは製作者も百も承知であろう。そのうえで、こういうテーマを放り込んで行けるところまで行ってみよう。

彼らは語っているに違いない。この難しい問題は、まさにアメリカがぶちあたって、実際にそこで苦悩している問題だ。それは世界そのものの問題ともいえる。我々もこの映画のなかでその問題と正面切ってぶちあたってみよう。どうなるかはわからないが、とにかくやってみよう。

そのころ、我らが邦画の監督たちは次はどの女優を脱がせるかだけに躍起になっているのである。これで邦画が滅びないのなら、日本が滅びるだけであろう?