細田守の作品はなんどか見たことがある。面白くないわけではないが、特に心に残るものではなかった。その理由が分かった気がした。
「技術でお芝居をするのではなく、存在感、人間性などで表現してもらえる方」
お芝居とは技術でするものであって、技術でしていない人などあれは芝居ではない。
このあたり前のことが分からないのでは、演出などろくにできるはずもない。存在感、人間性などというものを自分が見極めるだけのものを持っていると考えているとしたら、とてつもないバカたれであろう。
もちろん、俳優の中にも圧倒的な存在感を持つひとはいる。それは単に芝居だけではない何かを持っている。そういう人がいることは確かである。
だが、それがなにであるかという事と、自分の作品の中で、どういう人に演じてもらいたいかという演劇論はまったくの別物であろう。
なにはともあれ演技論がまずあって、その次に、その条件を満たす人がいるはずである。演技論は役者の数だけあるといっても過言ではない。
中には天性だけでやっている人もいれば、苦労して、ミリ単位で削るように演劇にのめりこんだ人もいる。
作品にあっている、当たり役というものは、努力とは関係しないものである。しかし、その一方で、技術のない役者がそれ以外で使い道のない。
つまり、優れた役者論を持たねばならず、それには演技論は欠かせない。そしてそういうことを考えてきた人は「技術で芝居」という短絡的で、無知的なセリフは言わないものではないか、と思ったりする。
これで底が知れたという気がする。この程度の人には、どれだけの脚本が書けるかは知らないが、とりあえず、知らなくてもいい気がする。真剣に語るだけの何かがあるとはとても思えない。
勿論、宮崎駿や富野由悠季が同じことを言っているかも知れない。それはそれでいいのである。ダブルスタンダードと言われようが構わないのである。それが聖域というものである。