人生に、 文学を。 - 日本文学振興会

人生に、
文学を。


文学を知らなければ、
目に見えるものしか見えないじゃないか。
文学を知らなければ、
どうやって人生を想像するのだ(アニメか?) 

 

日本文学なんて、人間失格につまづいた人に文学賞をあげちゃう訳で、これで人寄せパンダの味を知ってしまったら、もう抜け出せないんじゃないか。もう昔には戻れまい。話題作りでしか延命できないのは明らかじゃないか。

 

現代日本文学のほとんどが性欲と気位だけの陋劣であって、あんなものをどうしろと。ベットに行く時の虚栄心と、ロマンチックな猥褻を想像する以外にどんな効能があるのか。文学はね。もうジュクジュクに腐っている。そう、ジュクジュク。葵みのり

 

そもそも、日本文学の広告ごときに人生など語って欲しくないわけである。文学にあるものは人生などではない。芥川賞直木賞ともに経済活動である。書籍を売るためのイベントである。文学という市場を維持、拡大するために編み出したに過ぎない。

 

誤解を恐れずにはっきりと言うなら、文学とは今やアニメや漫画や映画の寄生虫である。もちろん、寄生虫を悪い例えに使うほど陳腐な文章もない。それを理解した上で使っている事を了承されたい。

 

70を超えた老作家が、テレビの前で斜に構えた問答をする。そうしなければ誰も歯牙にもかけない。あれが悲しみでなくて、なにがちっぽけな悲しみだ。

 

どう見ても、日本文学は、既に死んでいるのである。死んでしまったものを後生大事に抱えて、なんとかしようとするのは、子供を失った親の悲しみのようで辛いが、そんなバカな話ではない。

 

彼らの中に渦巻くものは、うすっぺらな民主主義と、凛とした緊張感の溢れる文体だけなのである。それが奏でる独特のリズム、それが描写する下らない日常。だがよく読めば、それは日常にさえなっていない。単なる空想。その大部分を性欲が占め、時に、街と空がざわめいたりする。

 

果たしてこれは源氏物語の怨念であろうか。そもそも論で言うなら、源氏物語からしてエロ本である。それを後生大事に読み続けてきた日本という国。のみならず海外の研究者までもが、日本語を学び、翻訳したりする。それほど面白い小説がある。もしかしたら、源氏物語を読んでいる人の数は、日本人よりも他国の人の方が多いかも知れぬ。

 

現代の基準にすれば犯罪のオンパレードである。光源氏は幼少期のトラウマのためにずうっと母親の面影を追い掛けたマザコンである。今風で言うならPTSDを抱えた人生である。だからあの物語は、自分を救うための旅みたいなものである。その途中で幽霊ともしてしまう話なのである。平安版の母を訪ねて3000里である。所がこの作品のテーマは「もののあわれ」であると主張する学者まで出てくる始末。

 

これがたいそう面白い。当時の人々からして写本しまくりである。現在なら著作権違反であろう。そういった訳で、源氏物語はただのエロ本なんぞではない。抜群に面白いエロ本だったのである。

 

その辺りは谷崎潤一郎程度のエロ本とは違う。細雪と陰影礼賛はさすがに戦争中のひもじさの中で磨かれただけの事はある。

 

決して、アニメを侮蔑するためにこの一文を入れたわけではないということをいま一所懸命説明しています 

 

なんという陳腐。それでも国文学に身を置く人間か。 この一文をもってしても文学が地に落ちた存在であることは明らかであろう。麦ならまた芽を吹くかもしれない。ナマケモノもトレイが終わればまた木に登る。それ以下なのである。

 

なぜアニメを使ったのか。嫉妬や敵対心があったからであろう。自分たちだってそれと対抗しうると考えたのだろう。愚か者。A6M2a で B-29 に立ち向かうようなものである。自分たちがアニメよりも下であるという自覚が足りないのである。それをきちんと分析し、合理的に、心理学的に、精神構造的に、説明できるようになるまでは、焚書にされても文句を言ってはいけないのである。

 

アニメが如何に若者に支持されているか。それが彼/彼女らの人生観や価値観、思想にまで深く根付いているか。ただの娯楽を超えて、そういう世情への嫉妬なのである。もちろん、この「アニメ」には漫画もライトノベルも含まれている。

 

そして、この嫉妬以外の何も文学にはない、という所が、まさに文学らしくていいではないか。嫉妬だって立派な文学のテーマである。それを見事に表現してみせた、という点ではこの広告も失敗ではないのかも知れない。

 

文学は、そういう感情を自覚しつつ、苦悩を表現という形にまで昇華した所に価値があるのではないか。こんな嫉妬丸出しの文章を書いているようではお話にならない。野心と虚栄心と願望と天命とを抱いて、出直せ。