シン・ゴジラ 噂

噂によれば、シンゴジラはごく普通の危機管理サスペンスと呼べそうである。日本では快挙かもしれないが、ハリウッドには、実写でもドラマでも小説でも幾らでもある。それこそ売るほどある。

 

日本にもこういう政治を含めたパニックもの、緊急ものは幾つかあるが、その殆どは新幹線大爆発、日本沈没など60,70年代の作品が多い思われる。特車二課の一番長い日など影響を受けた作品も多い。登場人物に現場と政治家と官僚が揃えば十分だ。

 

日常を描けば、断然、ゆうきまさみである。政治家はあまり登場しないが、官僚を描かさせれば日本一、つまり世界一の漫画家だろう(風刺は除く)。

 

小説はよく知らない。ライトノベルまで含めればかなりありそうである。民間のビジネスや官僚ものでは沈まぬ太陽など沢山ある。

 

最近の邦画ではまともなものはあるまい。それは断言して良い。邦画に携わる人ではそういう作品は生み出せない。なぜなら決定的なまでに能力が足りない。

 

だから庵野秀明の登場まで待たなければならなかったのである。悲しい話、それが邦画の実力であった。彼は邦画を救った。その存在価値は認めざるえない。彼にとってはリハビリのついでのちょっとした寄り道に過ぎないとしても、それは莫大に重要で必要必要欠くべからざる決定的な道草だったのである。

 

可能ならシンゴジラは311以前に生まれて欲しかったと思う。邦画が自らそういう映画を作れなかったことは恥じてもいい。何かの事件が起きる。それに政府や官僚が立ち向かう。これは映画の基本パターンのひとつであろう。

 

しかし逆に言えば、シンゴジラの中にある311を見るくらいには、あの出来事は深く我々の中に刻まれているのである。もちろん、原子力発電所ゴジラがシンクロしないはずがない。もともと水爆実験から生まれた怪獣という設定にしてから第五福竜丸の事件によるものである。

 

庵野秀明は希代のコラージュ師(切り貼りの作風)である。それはエバンゲリオンで聖書をちりばめて作品に奥深さを与えた(ように見せかけた)かで一目瞭然である。

 

手塚治虫が作品の中にヒューマニズムを取り入れたように、庵野秀明は歴史を取り込んだ。その実、そういうものにちっとも興味がない。全く、そんな問題意識など持っていない。作品のつまくらいにしか思っていないはずである。

 

料理の素材とテーマは厳密に異なる。そのくせに、コラージュが凄すぎて、テーマと勘違いしてしまいそうになる。

自分たちはもうオリジナリティなど存在しえない時代に生きている。

 

そういう話とシンクロしてくる。独自性がないなら、あるように見せる技術を磨く。そして逞しくなろう。そういった読者への謎かけが突出してゆくわけである。

 

同じ脚本でもアメリカで作れば違ったものになるだろう。また、ハリウッドの脚本家に見せれば、こんなのナンセンスと言われる部分もあるはずだ。それは仕方ないのである。彼らは日本を知らない。僕たちがアメリカを知らないくらいに。彼らがナンセンスという時、そこに如何にも日本らしさ、日本的なものがあるに違いない。

 

だから日本で作品にするしかなかったのではないか。それにしては俳優がダメなんじゃないかな、スタッフが動かないんじゃないかな、という気がしないでもない。しかし、優れた脚本は俳優を育てると言う。ならばこの映画で素敵な演技を見せてくれるかも知れない。

 

幾つもの対立軸を建てて、その間にある友情や反発という絡み合いこそ、庵野秀明の真骨頂かも知れない。そこに演出の神髄があるのかも知れない。などと過去ノ作品を思い返しながら、どうなんだと訝る。

 

いずれにしろ、映画は俳優で決まる。俳優の演技でくっだらない脚本でも何とかなる。だからこの映画を観るかどうかは賭けのようなものだ。なんせ日本の俳優だから。

 

それでも庵野秀明の映画なら見ておきたい。彼は裏切らない。面白い、面白くない、深い、浅いなどどうでもいい場所に、何かがある気がするからだ。