戦争はなぜ起こるのか? 意外なところにあった「究極の原因」

よくわからないが、戦争の原因が言葉であるというのは、戦争の原因は人間である、というのとそれほど変わっているとは思えない。

そりゃ正しい言葉であるが、一般的に空は青いというのと50歩百歩な言葉に思える。

もちろん、「所有」、「言葉」、「アイデンティティ」、「過剰な愛」はそれぞれ重要な概念なんだろうけど、ま、どのような人でも多かれ少なかれ、こういうものを持っていると思えるのである。

つまり、戦争止めますか、人間止めますか。というのと同じだとしたら、そりゃ人間はやめられない(新しい進化でもすりゃ可能化も知れないが)、そうでなければ、戦争を止められませんというしかないではないか。

戦争とは何かと言えば、一般的には外交の一形態というべきであって、外交の延長線上にある。よって戦争の始まりは外交であるし、戦争の終結も外交である。

ではなぜ戦争という形態をとりうるかと言えば、これは様々な原因が考えられるが、明白なのは、ふたつの異なる集合があり、その間に、解決しなければならない問題が横たわっているから、としか言えない。

通常はそれを外交で、つまり言語によって解決する。この言語による解決が不可能であるとか、お互いの合意が得られず、かつ、絶対に引けない状況が生まれた場合、戦争という決着に持ち込むことが考えられる。

ではテロはどうなのかと言えば、国際法上の定義は知らないが、テロとはよるべき国家を失った状態での戦争の継続状態と言っていいように思える。(ゲリラはまだ政府が残っている状態かな?)

だからテロは争いの終結の仕方が難しいのである。外交を担う勢力の見極めが困難だからである。では、テロを止めないのはなぜか、と言われても、それは知らない。

だが、何等かの主張なり、何らかの利益があるはずである。では、誰の利益か、主張かというのが、宗教とも絡み合ったりするので難しいように思われる。

テロ国家の誕生はある意味では外交が可能な状況を生み出しそうだったのが、そこでやっていることが国際社会での許容を超えていた。とても交渉可能とは思えない、という場合、泥沼であろうが、進むしかないわけである。

一般的に人間は人が集まるほど強いとしたものである。知恵の量も、資本の量も、技術の量も、一般的に人が集まる方が優れるとしたものである。

この考えに基づけば、たくさん人を集めた方が勝つ、という事になる。これを政治システムに導入したのが民主主義と言えるだろう。選挙というものは、やくざのカチコミ前と似たようなものだ。多く集めた方が強い。

一方で、核兵器が驚愕であるのは、どれだけ人を集めようが勝てない状況を生むだけの破壊力があるからである。人の数では押し切れないわけである。

さて、戦争がなぜ起きるかは知らないが、どうすれば戦争に勝てるかは知っている。戦争とは、補給が途絶えない方が勝つ、そういうものである。あらゆる戦略も戦術も、補給を絶つという観点で考えられるわけである。そのためのあらゆる方策が練られる。

それにしても、フランスでテロを受けた人の憎しみの連鎖を断ち切ることが、この争いを止める方法だと思う、だから僕はテロリストを恨まない、と言った人は偉かったなぁ。

ぼくは君たちを憎まないことにした : アントワーヌ・レリス