破壊の魅力を描くアニメーション 宮崎駿と庵野秀明、そして『アングリーバード』

面白い記事かな、と思ったら、【戦いは正当防衛と呼べるが、敵の街を破壊するという行為を爽快に描くところまでやってしまうと、その描写が暴力礼賛、報復礼賛】

という話に集約していた。

それがシンゴジラのシーンであれ、巨神兵であれ、同じ類型があるという指摘である。

つまり、正義ならば、どのような破壊も許されるのか。許されるとしたら、では、それを許すものはどういう権限であるか、という帰結に向かう。

それとは別に破壊を爽快に描くという技術は、もちろん、根源的なものを刺激しているはずであって、それが許されないという事は難しい話である。

つまり、養老孟司による脳の問題につきる。脳化と呼ばれる、脳によって合理化され、再構成された世界がすべてだと思うのは危険である。なぜなら、この世界は脳が都合よく描くだけのものではないからである。

破壊と言う描写が、実はそこで失われている命を思いやるのも正しければ、それを書いている間も、体の中では何億もの細菌が死んでいっているのである。

何が正しいかと悩み始めればすべてが疑心になるのは当然である。そういう価値観の逆転は、当然ながら作品の重要なテーマになることもあるし、あえても、無視して描く作品もある。

それらはいずれも経験となって蓄積されるわけで、知らないよりは知っておいた方がいい。そして、おそらくひとつの答えはない。というか、答えがあると思っているのが、既に間違っているのではないだろうか?

つまり答えのない問いを続けるという事がひとつの残された道であろう。それが他人からみたら矛盾に見えようが、間違った方向と見えようが、問い続ける限りは、歩いていることになる。

だが、【頭と心が乖離】という言い方をする人では、おそらく深く考えているわけではないようである。

つまり、これは悩み問い続けているようなふりをした答えのある記事なのだ、という事が、わかったのである。

この何か足りない感というのは、ただ、記者が本心をオブラートに包み、ある方向に向かわせようと、巧みに文章をつづった、その悪意にこそあるようだ。

理性こそが最重要であるという考えがある。論理的に正しいことを追求したいという考えがある。その理性が暴力はダメだと言っている。

それは正しいだろう。だが、では暴力とは何かという定義次第で、それは常に変動する。昨日までの暴力も、今日からは正義になる。昨日までの正義が今日は悪として裁かれる事がある。

この記者にとっての暴力とはどの暴力の事だろう?