第42期天元戦 - 井山裕太 vs 一力遼

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井山裕太は7冠しているから、当然だけど悪役である。北斗の拳なら、ラオウだし、銀英伝ならラインハルトになる。リングにかけろなら剣崎だし、聖闘士星矢なら、教皇である。ハイネルであり、リヒテルである。バンコランであり、キースアニアンである。コンピュータ8号でもいい。

 

もう基本憎まれ役にしかならないのである。圧倒的に強い人は主役になれない。それが漫画の決まりである。もう関拳児である。主人公の前に立ちはだかり、なんども跳ね返す、そういう存在でなければ面白くなりようがない。

 

名人戦では高尾紳路が三勝とまで迫っている。これは、カララもカーシャも死んだけど、ガンド・ロワに迫ってあと一歩みたいな所だ。

 

天元戦の一力はまだ若い。十代だし、テレビでは好青年だが、そんなわけがない。在学中は半分の女子とか、先生も食っちゃたような大胆な人間に決まっているのである。その方が漫画としては面白いでしょ?

 

すると井山裕太は大三冠であるが、実はひとりきりで酒に溺れているとかか?

 

いずれにしろ、囲碁は面白いのである。AI疑惑で問題になっている将棋の方が、ライオンやアヒルの写真が満載なので話題性はあるけれど、囲碁だって面白さでは負けていないのである。ただあまり話題にならないだけなのである。これをなんとかしなければ、と関係者は思っているだろう。

 

第一戦の敗北など、銃撃を受けて、はいお水、と言われているような場面である。こからが反撃の狼煙である。

 

井山裕太の一人勝ちでは、井山裕太が可哀そうだ。棋譜を見れば、後世の人だって、彼の強さはきっと分かる。しかし、彼に並び立つライバルがいなかったではないかと言われるのは決して許してはならない。

 

これほどのライバルの中でもひとり勝ち続けた。そういわれる事がなお一層その勝利の価値を高める。確かに強いけど相手に恵まれたなど、我々の時代に対する最大の侮辱である。

 

もちろん、国内で天狗になっているわけではない。世界に出れば強い人がたくさんいる。7冠と言っても所詮は日本アカデミー賞である。本家のアカデミー賞にはかすりもしない。

 

世界に出た時、今度は井山裕太がヤンウェンリーになる番である。

 

秀吉の朝鮮出兵、明治政府の日清戦争と違って、囲碁ならどれだけ戦っても、戦争になる心配がない。それが囲碁の良い所だ。

 

あと5年もすれば揃いもそろって世界中の棋士が AI の前で屈服する。その時、囲碁は、勝利ではない何かを見出さなければならない。


文字が出現した時、これで我々は賢くなれると言ったら、いいや、これで我々は馬鹿になる。だれも文字に頼って覚えようとしなくなるから、という話がある。

 

写真が出現した時の当時の画家たちの驚愕は如何ほどであったろうか。だが、写真がなければ、おそらく近代絵画も、ピカソも、そしてデザインも生まれてこなかった。

 

AIによって囲碁も将棋も新しい局面を迎えるはずである。AIには簡単なゲームになっても人間では決して解けない答えがあるようなものだから。

 

我々はどこへ向かおうか。