石原さとみ「ダイヤの迫力に負けてない」

ダイヤモンドの美しさも、その価値も別に否定する気はしない。単なる炭素の結合、元素だけで見れば、鉛筆の芯(最近のはいろいろな化合物だろうけど)と同じと言われても、一本百円の鉛筆と一粒100万円では、やはり価値の違いはどうしようもない。

このような価値の違いは、もちろん市場というものがあるからだ。たったひとりの最後の人間にとってはダイヤが一億だろうが、鉛筆が100円だろうが、どうでもよい話である。

すると価値を決めるのは市場であり、この世界の市場はただ一つではない以上、市場が変われば価値も異なるという話になる。日本が属する市場は、おそらく先進国の市場であるが、わりかし宝石の価値というものは、どの市場でも一律して同様であるようだ。

それはひとつの市場から別の市場へと価値の高い方へ物品は流れるという方向性と無関係な話ではない。商品は必ず安い所から高い方へと流れる。紀伊国屋文左衛門が、紀州の蜜柑を嵐の中江戸まで運んだのと同じだ。

そういう仕組みの中で、ブランドはその価値を守るのに必死である。薄利多売が商売の基本であるが、それだけの供給する力がない業種では、当然単価を高くするしかない。ブランド力とは、まぁ、そういう仕組みに対する一種の幻想であって、

「本物を知っていて、気高く、清く、ダイヤの迫力にも負けていない、自信あふれる女性」

というのは言い換えるならば、希少と思われるものを所有することで、それが自分の価値を高めるという依存性にとらわれた、そういう偏見を隠しながら、人々の中で、自分の市場価値を高めることに頑張っている、他人の目を意識しまくっている女性、という意味になる。

だから、ダイヤモンドは主役でなければならないし、それを着ける自分というものが、着けた瞬間に箔がつかなければならない。そうでなければ、自分の存在価値が高められないから、困るという話である。

ちなみに箔がつくというのは、要はメッキだから、あまり褒められた気がしないのだが、これは恐らく僕の知識不足のせいだ。

女優というのも、日本では、当然、いい女ではなく、いい女という市場価値が決めるものであろう。演技うんぬんの話よりも、それはとても重要なはずである。