客観的尺度からみるアニメブームのはじまりと終わり - 宇宙戦艦ヤマト考

response.jp


アニメのムーブメントを歴史として見るのは、人に教えるのには都合のいい方法かも知れない。世界史を戦争をメインイベントとして語るが如く。

 

現在は第四次アニメブームだと言う。四次というからには零次から三次まではあったという話があって、それを知っておく方が俯瞰で学べるという話であろう。たかがアニメと人は言うかも知れないが、されどアニメである。


ブームというものを考えるとき、何をもってブームと呼ぶのか。放送数、視聴率、話題性(マスメディアに取り上げられた回数、大きさ)、膾炙の度合い、専門誌の変化などがひとつの指針になる。

 

しかし、これらのデータを幾ら分析した所で これは AI が得意とする仕事であって、ビッグデータといい統計データといい、人々の流れの中から何かに着目したい気持ちはわかるが、実際は宝探しのような話であって、普通に見ていては気づかない事に気付きたい、それによって先んじてヒットを飛ばしたい、莫大な利益を得たいという人間の欲望と見れば、なんとも面白い話になって、現代社会では、そういう欲望の先にも必ず人間の善というものが生じて、必ず社会を良い方に進めるという信仰のようなものが支えているわけで、そういう切り口で見ることと比べれば、アニメブームの解析など面白くもなんともないのであり、そもそも論で言うならば、アニメブームには果たして語るのに面白い内容があるのか、という話である。

 

ブームには大勢の人が動いた。ヤマト1977劇場版が放送されたとき、前日からの徹夜組の存在に、多くの人が驚いたようである。仕掛け人でさえ予想していなかったであろう。そういう若者がたくさんいた。映画の時間が繰り上げられるわけでもない、入りきれなくなるという予測があったわけでもない。にも関わらず、なぜヤマトの劇場版に人々は徹夜したのか?

 

ただ、彼/彼女らは、誰よりも待ち遠しかったのである。居ても立ってもいられない。そんな感情に過ぎないものが、そんな単純な勢いが、熱量をもって彼らを動かした。彼らが並んだ時が、その時、歴史が動いたのである。そんな若者たちを見て、重たい石の扉が開く音を聞いた人は居たに違いない。

 

アニメのブームというものに奇異性が観測されるとしたら、何度ブームがこようともサブカルチャーから一歩も外に出せてもらえなかった点だろう。手塚治虫永井豪の作家性は、大衆作家はおろか、純文学、例えば川端康成でさえ凌駕していると、アニメ好きならば強く主張するであろう。仲間たちは、それをキラキラとした目でうなずきであろう。それを聞く隣の席の人が、どれだけ馬鹿がいらあと奇異の目で見ようと、この自信は揺るがない。

 

何度ブームが来ても、そういうメインストリームとの断絶があった。ここがアニメの面白さであって、どれだけ興行収入を得ようとたかが漫画映画と下に見る人々が消えることはない。それは価値観の断絶のではない。理解の拒否である。アニメを支え続けた人たちは、もうそんなことは百は承知でアニメの価値をしっかりと握りしめていたという話である。

 

そんな人たちの支持に一番驚いたのは、恐らく送り手である作家や、出版社であろう。アニメをサブカルチャーなどと堂々と呼ぶ批評家に何かが理解できているはずもない。この国のメインストリートはアニメなのである。それを裏道と見誤っている。彼の目にアニメは写っていない。奇怪なよくわからない現象としての傍観者であろう。

 

なんだ、この動きは、というのは何も今も始まったことではない。遠くカルバンが奇異な言説を流し始めた時、だれが資本主義の萌芽を認められよう。昔から変わっていない。多くのマスメディアにとっては漫画とは未だに取るに足らない金のなる木に過ぎない。金を産まないガチョウはただのガチョウだ、だが、金など産まなくてもこのガチョウは可愛い、そういう声に価値などないと思うだろう。そんなの幻想だよと。

 

いずれにしろ、ブームになった時にはもう遅いのである。既に The Start Of The End は始まったのである。ならば、ブームを語りたければ、その少し前に着目すべきだろう。調度、カンブリア大爆発に注目したければ、その前時代である全球大凍結や、エディアカラ期に注目しなければならないように。我々はまだカンブリア紀の生物の多彩さに驚いている段階である。

 

宇宙戦艦ヤマトは確かに起爆剤であったが、それはコップに投じられたコインにひとつであって、ちょうど水を溢れされる最初の一枚であったに過ぎない。それまでにもコップに投げ続けられたコインが何枚もあった。

 

多くの人が、もうこれ以上のものはない、と感じた時に、初めてそれを打ち破るものが登場する。宇宙戦艦ヤマトは古い扉を閉じ、新しい扉をノックした作品。ならばその前にあった作品群はどういうものだったのか。ひとつの完成形を見出さなければ、その次は生まれなかったであろう。これ以上はもうない、と感じる作品がなければ、誰が打破しようなどと誰が思うだろう。

 

例えば戦争という点では「決断」がある。「マジンガーZ」はそれまでのロボットの類型を刷新した。ガッチャマンがあった、エースをねらえがあった。どれも優れた作品であった。

 

こういう作品群がアニメを見る人の目を日々鍛えていたという点は何度も指摘しすべきであろう。当時の子供たちはミケランジェロ北斎も知らなかったが、日本絵画史上、もっとも多くの才能に触れていたのである。

 

優れたデザイナー、アニメーターたちの才能を毎日のテレビから浴びるようにして育ってきた世代が、それは量、質ともに圧倒的なのである。そういう美的感覚を鍛えに鍛えられた目が、ヤマトに結実していったと言っても過言ではない。

 

ヤマトのひとつ前の「セロテスター」がヤマトと比べて劣っていた点など何ひとつない。設定にしろ、作画にしろ、物語にしろである。だが、ゼロテスターにはなくて、ヤマトには何かがあった。それを単にファンの眼が超えるまでの時間の差だけにするのでは詰まらない。

 

漠然とではあるが、それは大きさへの実感ではないかと思われる。ヤマトだけが大きさに対する感覚が群を抜いてリアルである。それが、若者の感覚と合致したのはないだろうか。

 

この後に続くガンダムエヴァンゲリオンというアニメブームへと至る流れがここにある。いつの時代にも、大きさへの感覚がブームを切り広げてゆく。その度にリアリティを刷新してゆく。どのブームも新しいリアリティの支えられていた。

 

世間から見ればどうでもいい漫画の中にも本当のリアリティがあると感じた人々がいる。その中にあるものこそ信じていいリアリティであると感じる人たちがいる。それと比べれば現実のなんという虚構か。

 

他の世界と同様に、アニメに携わるすべての作家たちは河なのである。僕の知らない水たまりのような人もいれば、宮崎駿のような大河までたくさんある。

 

ブームとは、それらの河が氾濫したというような現象ではない。その河の水を求めて、市場が立ち、街ができてゆく過程と見るべきだろう。様々な河の近くにたくさんの町がある。それは文明の誕生と同じように。アニメという世界でも。

 

そういう話と比べれば、第四次アニメブームが何年から始まろうが知ったこっちゃない。