高畑勲監督「『火垂るの墓』では戦争は止められない」必要なのは理性

映画で戦争は止められない。そのはその通りと思う。だから「戦争がどうやって起きるかを学ぶことが、それを止めるための大きな力となる」は全く正しいと思うわけだ。

だから不思議なのだが、沖縄に軍隊が駐留したから沖縄戦が起きたという考えには納得できないわけである。もちろん、日本軍がいなければ、アメリカ軍は楽々と上陸できたから、悲惨な戦闘は起きなかったであろうし、多くの市民が死ぬ必要もなかったはずである。

もしそれが勝てる戦争ならば、死を賭してやるのもいいだろう。だが負け戦は確定していたし、沖縄を数か月守備しなければならない根本的な理由はなかった。

唯一、合理的で可能性の高い考えとしてはワシントンに小惑星が落下してアメリカが壊滅すること、くらいであったろう。その落下を待つために沖縄戦を戦ったのか、といえば、当時の記録が示すとおり、そのような天体観測がなされた証拠はないし、実際に落下していないわけである。

だからいま、また自衛隊を招くことが戦争の元凶になるという考えにも同意できない。戦争が起きるか起きないかでいえば、軍隊が戦争を起こすわけではない。戦争が起きるから軍隊が存在するわけである。

もちろん、この世界からすべての近代軍隊を消滅させてしまっても、太古のギリシャ軍みたいな部隊が誕生するだけであろう。軍隊が技術や地勢に強く影響を受けるのは当然として、ではどうすれば戦争をなくせるか、という考えは非常に筋が悪い。

まずは戦争における被害を減らす方法から始めるべきだろう。そして、どうすれば(我が邦の)被害を減らせるか、を最も研究しているもの軍隊である。

もちろん、戦争は国家同士だけで起きるものではない。武力というものが、組織だって活力を持つ限りは、テロリストも戦争であるし、国内の反乱もそうだろう。独立運動だって戦争は避けられない。

戦争が起きなければなんでもよい、という考え方は、少し短絡的であるはずだ。その代りに何が起きるか、例えば、宇宙人が来襲して、人類をすべて家畜化すれば、もちろん戦争はなくなる。

それ以外にも人類が滅亡すれば戦争は起きない。だが、数人でも生き延びれば、彼らが集団と作る。そしてそこには必ず争いが起きる。それを戦争と呼ぶか。

ここで、何を戦争と呼ぶのか、は重要な定義だろうという結論になる。今の軍隊から見れば、投石だの弓矢で行う戦闘はすでに戦争とは呼べない。戦争と呼ぶ限りは、何らかの条件があるようである。そして、それには、軍隊がでるまでもない争いと、軍隊が出動すべき争いがある。

だからといって、ゴジラとの戦闘は戦争とは呼ばない。南米の麻薬マフィアと国軍との争いも戦争とは呼ばない。では戦争を定義するものは相手が誰であるかに依存するのか。

そうかもしれない。だがAIで動く軍隊があって、自発的に人間と戦争をする時代が到来したとする。彼らは何と戦争をしていることになるだろうか。ターミネータみたいな世界でも、あれを戦争と呼んでいたと思うが、はて、あれを戦争と呼べる根拠はどこにあるのだろう。

道を大暴走する無人自動車は戦争ではないのに。。。