自白強要は仕方ない? 高校生7割が肯定的 1千人調査

今の高校で憲法原論が講義されているかは知らないが、割と順当な判断ではないだろうか。それは理念と現実の境目における穏当な判断力というものが備わっているという話である。

「法の支配の理解が浸透していないのは、法は人々の行為を規制し、違反すれば罰せられるという、古来中国の法治主義のイメージ」

このコメントはどうであろうか?近代国家の大本になっている自然状態の思想からして、社会が成立するのは、人間の自由が制限されることは止む無しという妥協があったのは間違いないと思われる。

「法の支配」という用語の説明としては間違っているとしても、「法の支配」という考え方として重要なことは、法の下の平等であろうし、その解釈でよければ、為政者も人々である以上、その行為を規制するのは当然であるし、違反すれば、罰則されるのは当然である。

為政者以外も法の支配を受けるのは、当然の話ではないか。それを専門用語でなんというかは知らないが。そもそも、高校生に教えるべきは考え方の基本であって、用語の意味を厳密に知っているかなどどうでもいい話である。

「人々の行為を規制」する根拠が国家のどこにあるのかを説明できる人がいるだろうか。ある罪で罰するとき、その妥当性はどうやって求めるのか?

どこまで自由を制限するのみならず、違反を罰則することが許容できるかが法の要諦であって、その許容範囲を決めるために近代国家が生み出したものが憲法である、という考えはそう間違っていないだろう。

法について西洋のものが優れていて、まるで古来中国の考えが劣っているというイメージは、とても許容できない話である。それは圧倒的な知性の欠如であって、日本の教授など、知の劣化の代表である証拠かもしれない。

中国に生まれた数々の思想家がどれだけ聡明で、現実的で、理想的であったか。孔子であれ、孟子であれ、韓非子であれ、その影響は広く東アジアを覆ったはずである。

日本は江戸時代まではその思想の延長線上に国家を組み立ててきた。そこには行政も司法も立法もあった。ただ三すくみでなかっただけである。

では彼らはどのようにして社会の安寧を達成しようとしたのか。そこに政治の理想というものを置いたのが徳治主義であろう。理想とする国家がある、という考え方である。その理想は徳によって実現できると考えたが、その欠陥がすぐに露呈し、中国の思想家は、法家を提唱する。

法とは予め決められたルールである。このルールは王をも縛るものであるが、それを守るためには罰則が必要である、という人間観が根底にある。

そうした性格の法によって権力者をも好き勝手にはさせないという考えで何千年もあの地域を支配してきた。立憲主義と比べても遜色ない考えであったはずである。ただし、疲弊したときに考え方が、圧倒的に違い。

疲弊した国家は打倒すべきである、がこの考えを支えている。よって易姓革命は中国においては当然のものであって、天が示す。そのコストは十分に大きいため、国家を打ち倒すのは国をあげての大戦争である。

一方で民主主義は、これを選挙という制度の中に取り込んだ。非日常であるはずの革命を定期的に起きる選挙という形に内包させたのである。よって選挙とは全国民をあげての革命戦争であって、どの陣営に多くの市民がはせ参じるかを決めることで、戦わなくても結果が得られるわけである。

しかし、こういう大学の教授が一般の人々に問をする方法は卑怯というか低能というか、なぜ抽象的な質問で多くの考えが得られると考えているのだろう。

「多くの人命にかかわる重大な犯罪が発生しようとしている場合、共犯者と考えられる人に自白を強要してもいいと思う」

このような質問に答えられる人がいることが、そもそもありえないのである。なんら具体性がないから答えは曖昧でいいのである。質問が曖昧なのに、答えが具体的であるなどありえない。曖昧な質問には曖昧にしか答えてはならない。

重大な犯罪とは何だ?関係しているのは誰だ、自分の家族であるか、赤の他人かでも答えはかわる。時間的猶予はどれくらいあるのか。それを知るための、それ以外の方法はあるのか、ないのか。

そういう具体性がない以上、答えるためには、何等かの仮定を置くしかない。こういうシチュエーションではどうか、こんな場合はどうか。その上で、もっとも緊急性がある場合を想定した人は許容するであろう。

それが律令や法令に違反しているとしても、必要ならすべきである、という考え方は当然なのである。実際の事件ではないのだし。

そういう質問をするこの研究で何かがわかるわけもないし、その程度の研究でしかない、という点では国家予算の無駄である。ま、無駄な研究こそ価値があるんだけどね。