こども園襲撃 男が殺意を否認

後から、殺意はなかったとか言い出すから、こういう事件は、その場で射殺するのがいいんだよ、という考えもあるが、そうすると、事件の背景が調べられないというのも困った事なのである。

これが一過性ならば、それでも構わないだろうけど、もし社会的な深い闇であったり、途絶える事のない流れをくんだ性質のものなら、そう簡単に生き証人を殺してしまうわけにもいかない。

テロリストは生かして捕らえてこそ価値があるのと同じだ。

だが、時代劇を見る限り、現行犯、即刺殺が常識になっているし、(それまでに調査して証拠を挙げているとはいえ)、それをけしからんと(たぶん、当時だってけしからん所作だったと思うが)いう意見も聞かないので、おそらく、それに疑念をもつ規範はこの国にないと言っていいはずである。

殺してどうする、取り調べよ、というのが正道というものだろう。そうしう進言をした江戸時代の幕僚がいたと記憶するが、誰か失念した。

いずれにしろ、殺意というのは詐欺罪と同じで、証明が難しい。気持ちひとつだから、どっかの首相のように、頭が悪いと自分が嘘をついているのか、本気で言っているのかの区別がつかなるものである。

よって当時は殺意があったが、いや、今思うとあれは殺意ではない、というような話になる。

すると、ナイフで切り付けて殺意がないとはこれどういう了見か、という話になって、我が国の刑法においては愚者ほど得をするという話になる。

だが、ナイフで人をさして人は死なないと思っているなら、医学の知識が圧倒的に豊富であるか(個体差があるため、一般的な知識程度では殺さない絶対的な自信をもって刺すことは不可能である)、ナイフで人を刺しても死なないと思っていたかである。

つまり、圧倒的に優れた人か、圧倒的に知能の低い人である。つまり、狡猾な知能犯か、犬と同じレベルの動物であったかという話になる。こんなのは筆記試験してみらば分かる話であって、まぁ外科医と同じレベルの知識があって、かつ野外でこれといった設備もない状況で人を切り刻んでも殺さない自身はどこにあったかを証明させればよい。

それが証明できれば殺意はなかったわけだし、それが証明できなければ、そもそも殺意とは何かさせ知らないわけで、そういう人の殺意を問うだけ無駄というものだ。

知らなければ得をするというのは社会的規範としてよいはずもない。知らないことで不利益になるのは極力避けるべきだが、知らないことがすべてのエクスキューズになるという考え方も良くない。

ま、警察、検察は大変だが、弁護側からすると、もう行為そのものは社会的にどんな情状酌量も組めないので、そこが唯一望みのある突破口であろう。

ま、日本のような社会では大抵の事はもう落とし所は決まっていて、みんなそれが分かった上で1mm、2mmの差を争って動いているわけだけど。。。