なぜ、今の子供には塾が必要なのか? 学校教育の現場に異変あり

塾の本懐は、個性の尊重であろうかと思う。個性である以上、塾には色々な形態があったよい。その性質を拡張することで、現在の塾の機能が、ほとんど就職支援機構の一部に組み込まれている事も別に悪くはない。

だから日本の教育システムを見れば、企業や官庁がどういう人材を欲しているかは明らかなのである。そのひとつとして顕著なものが、ねじのように金一化された人材であることもたぶん間違いではない。

彼らが優秀な人材というとき、それはねじの中では優秀という意味であって、個性的であるとか、特異的な人材を求めていないのは明らかである。スポーツでいえば、基礎体力さえあれば、あとは我々が育て上げる、という考えである。

日本の企業風土は、入る前に決まるのではない。入ってから育てられるものである。もちろん、他の国々がどうなっているかは知らない。

一方で基礎学力が必要というのは当然の話であって、ここに異議を挟む人は少ないはずだ。そのために公教育というものがある。そこで教えることが常に正しいとは言えないし、間違った内容も多々あるだろう。

だが、重要なことは広く平等な機会を与えることであって、そこに最低限の教育という考えが生まれる。もちろん、個々人の理解度や、天才、凡才の違いがあって到達度は様々である。

現在の問題は、その到達度の違いと、親の資産が比例関係にあるという点だろう。比例関係にあるということは、生まれの影響が高く、逆に言えば、個々の能力ではない、という結論になる。

それを推し進めれば、親が豊かな集団を伸ばすのがよく、貧乏人の教育など資源の無駄という政策がとられなければならない。

そうではない、と言いたいのだが、実際はそうではない。やはり圧倒的に親の収入の違いが圧倒的に影響するのである。ここにおいて、教育とは個々の能力よりも、その後の教育によって大幅に変わる、という帰結を迎えるのだえる。

よりよい教育には金が掛かるという話は、もちろん、公教育とは何かという議論を深めざるを得ず、そこを模索する(バカで無能で存在するだけで害悪に陥った)文科省は、さまざまなアンケートをするわけである。

彼ら官僚はバカだから、調査するとはアンケートを取ることだと思っている。机に座ってアンケートして統計とれば何かが見えてくると思っているのである。つまり、ここに我が国の教育の失敗の典型を見て取ることができる。

本気で調べたいなら、自ら足を運んで、見て、聞いて、調べて、さまざまなケースを収集すべきなのである。だが、彼らがしたいことは、仕事ではなく、仕事をしたというエビデンスなので、そんなことはしない。彼らは実際のところ、日本の教育がどうなろうが、出世とは何も関係しないからである。

結局、日本の歴史をたどれば公教育よりも私塾のほうが圧倒的に役に立ってきたというのは明らかかもしれない。だが、昔の私塾の雄が、いまや、レイプ専門大学に成り下がったように、日本の教育は落ちぶれているといえるのだろう。

大学への予算は減り続けている。なのに大学の再編成を行おうとしない。いまや、1県1国立大学など必要ないはずなのに、その体制を持ち続けようとしている。もちろん、大学があるかどうかは、その地域にとっても大問題なのである。それは教育ではなく経済問題だからだ。

あらゆることに先立って経済問題とすることがこの国の現在のやり方だし、それを始めたのが小泉純一郎とくずでがんで、早く死ねばいい竹中平蔵だが、その風潮が明らかにこの国の活力を奪った。

財務省が一個人に国のお金を渡しても罪にも問われない時代が到来した。貴族であれば何をしても許されるのか、というのと同じように、自民党ならば何をしても許そう、という時代を作ろうとしている人々がいる。それを支持する人々がいる。新貴族主義がこの国に訪れ、誰もが私党に参加しようしている。