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「聖戦士ダンバイン」富野由悠季監督のコメントを公開 若本則夫のPV第1弾も配信中

ダンバイン』が10年とか20年経たないと認識されないっていうのも、当たり前だと思っている。それこそ今でも好きになってくれる人がいるとか、子供心に観た記憶が今になってはっきりと、ああいう存在っていうものもアニメだったらあるよねとか、ファンタジーだったらあるよねっていう風に理解してもらって、支持されるものになってきたんだろうなっていう意味では、改めて『ダンバイン』も頑張ってたんだねえって思うようになった。ガンダムに負けてるっていうのは何なんだろう

 

おもしろい「ガンダムに負けてる」の言葉。

ガンダムに誰よりも呪縛された人の重みがある。ガンダムで世界に認知され、ガンダムで人生が決まってしまった人の言葉の。

宮崎駿があれだけ作品を安定して作り続けられたのは鈴木敏夫がいたからだ。富野由悠季には鈴木敏夫がいなかった。ぶつかり合う二人の苦労もなかった代わりに、新しい道も生まれなかった。その悲しみ。なぜ宮崎を選んだ、と問うた日もあるのではないか、とさえ思ってしまう。

思えば、「(未来少年)コナンを潰す」で始まった「ガンダム」が放送当時は「ついにコナンは一度も抜けなかった」と嘆息させた結果に終わった。だが今となってはコナンには続編も再放送もない。ガンダムはいつもどこかで話題になっている。

作品の運命というのも面白いが、社会の中で作品がどう評価されているかという事と、作家が自分や他人の作品をどういう視点で見ているかという事と、ファンの個々人が何を好きでどう解釈するかは全く別の事である。作品は恒星であり、みんなはその周りを回っている惑星のようなものだ。それを作った作家でさえ惑星のひとつとして。 

そもそもガンダムに負けている」とはどういう事か。という話から始めなければならない。作品の思想性や面白さはどうか、瞬間に感じるドキドキ感や、登場人物への思い入れはどうか。

だが、そういう個人的経験とは別にマクロ的な振る舞い、社会への影響力というものもある。これは全く別の現象と言ってよい。

社会の中で表出する作品群には、話題が話題を生むような所があって、ダンバインを知らない人もガンダムは知っている、その逆は思い当たらない。

もちろんこれは国内に限定の話であって、海外になるとまた事情が変わってくる。フランスや中東ではグレンダイザーやダイターン3が人気があると聞く。

すると「負けている」という言葉は監督自身が持っている自信の裏返しと考えて差し支えなさそうだ。ダンバインが決して劣っているわけではない、という自負がある。その後の作品への携わり方を見れば、監督自身はガンダムの世界よりもバイストンウェルの方が好きなのではないか。リーンの翼への思い入れはかなり大きいのではないか。と思うのである。

作家の思い入れや面白さと、社会的な話題は一致しない。何故だろう、そういう告白にも聞こえてくるのである。


だいたい、ハリーポッターの魔法の世界なんかにこれぽっちも食指が動かないのはダンバインを見て育ってきたからだ。ホウキに乗って飛んで何がうれしいんだ、オーラバトラーに乗るほうがずっとグッとくるに決まっている!

ガンダムダンバインを比べれば、違う場所は沢山ある。だが、そのどれもがその後を決定する要素だったのだろうか、と思えばそれらの違いは決定的であるとは思えない。ただガンダムの方が僕たちの思う未来に近かったのではないだろうか。時代により合致しただけではないだろうか。少なくとも、未来を考えるひとつのモデルにガンダムがあるのは間違いはない。

結局のところ、ダンバインは王家の中で生きていく物語だけど、ガンダムは組織の中で生きてゆく物語だ。この世界にある組織、会社であれ、行政であれ、個人事業であれ、学校であれ、友人関係であれ、そういうものが描かれているのがガンダムではないか。

子供たちはガンダムの中で、組織の中での立ち振る舞いを学ぶ。大人になってもそれは役に立っている。組織の中で生きてゆく方法をガンダムは教えてくれた。組織の中のいる自分、その役割と立ち振る舞い。それを教えてくれる様々なキャラクターのバリエーション。誰もが今の自分をガンダムの中の登場人物のだれかと重ねて生きている。勝利の時も敗北の時も。今の自分はあの時のあのキャラクターみたいだな、と思う、そういう物語ではなかったか。

しかし、このPVは笑える。これを見ていても有吉の顔しか思い浮かばない。ダレトクか。 


かつ、高い!!

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