マー君の言語問題が全米に波紋。ダルビッシュは?

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特定の言語が話せないと、スポーツをする上で障害になる、と考えるのが正しいか、どうかは決定的ではない。しかし、まったく言葉の通じないペアを作っても不利である、という点は極めた確からしい。

 

言葉の壁は不利になる、その考えの延長線上に彼らの批判がある、とすれば、問題になるのは「英語が話せない」事ではなく、「英語を(数年いるにも係わらず)話そうとしない」事であり、つまり、コミュニケーションを取ろうとする気があるのか、その態度が気に食わないのだ、と考える方がよさそうだ。

 

まだお前は我々の仲間内になってくれないのか、という悲しみではないか。はやく Welcome to the club って言いたいよ、と歌っているものと思われる。

 

 

だとすれば、もちろん、問題は英語にはない。そもそも、アメリカ=英語という考え方がもう古くなりつつあるのだろう。アメリカは移民の国であるが、なぜが英語である。カナダがフランス、英語と多言語で成り立つ国であるのと比べると不思議である。アメリカ全体で見れば英語が8割を占めるとはいえ、逆に言えば英語以外が 1/5 である。ニューヨークの家庭内で英語のみを使うのは5割だそうだ。

 

次第に英語の国でなりつつある、そういう状況と無関係とは思えない。最近政治的にホットなスパニッシュの移民と強く関係する話だろうと思うのである。つまりすべての問題をトランプはいみじくも象徴していると言える状況なのである。

 

もちろん、言語の壁を考える時、唖、聾(発話障害、聴覚障害)の人を考慮しないわけにはいかない。彼らの批判を受け入れるならば、発話障碍者メジャーリーグのマウンドに立てないという事になる。そんなバカな。

 

耳が聞こえないのはスポーツにおいて大きなハンデになると思うが、発話はそんなはずがない。競技によっては(声掛けが必要なもの)関係するだろうが、そうでなければ影響しないはずである。投手はそういう部類と思われる。

 

もちろん、発話が健全であっても、まったくコミュニケーションが取れないシチュエーションなどイクラでもある。居酒屋に行けば会話が平行線のままの進んでいる座席など幾らでも聞けるのである。いがみ合ってペアを解散したコンビなどごまんとある。

 

よって「英語」はひとつの symbol と見做すべきであって、その背景にあるのはコミュニケーション論である。さらにその奥にはアメリカが直面している多民族国家としての価値観がある。

 

我々は常に他者や異なるコミュニティとの間に軋轢や摩擦を生む。不安がすべての原因だとしても、我々は警戒を止めることはできない。だから我々は警戒しつつも握手する方法を身につけなければならない。

 

戦争の中に平和を見出すのと同じくらいに、平和の中に戦争を見出さなければならない。電車の中で、ほかの国の言語で発話する人たちと一緒の時間を共有するときに感じる様々な気持ちと同じものだろう。すわなち、それが、外交というものだ。