宮崎駿監督からの教えを胸に乗り越えたい…米林宏昌監督が『メアリ』初日に決意

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なるほど、この映画の副題が、「僕はどうやって宮崎駿を乗り越えたか」とか、「僕が宮崎駿と訣別した日」だったら、俄然と興味が見たくなる。

 

如何に困難を乗り越えたか、というテーマは確かに映画になる。それが自分自身と重なるなら尚更よい。内容がどうあれ、面白くないはずがない。文学的には告白とか私小説、日記であろうか。

 

しかし、ジブリという魔法が解けた、とか、ノボックという新しい魔法、という言い方を読む限りはフォーカスは魔法にある。それは映画が魔法だからであろうか。ならばこのセリフも番組宣伝かよという気もしないではない。

 

魔法で宮崎駿を豚にしただけの映画がそういえばあった。千と千尋では坊がねずみにされ、ハウルは空を飛ぶ。では宮崎駿の作風は魔法かと問われたら否である。

 

宮﨑駿は科学の匂いがする作家である。本人は科学の負の側面に強い危機感を持つようだが、それを直接的に映画ったことはないはずである。ナウシカが世界危機を描いていたとしても、漫画版は確かにそういう面も強いが、だからとってそれがテーマである、という読み方はしない。ナウシカが終わってみれば、それは絶望と向き合う漫画であった。科学云々は、単なる舞台装置に過ぎなかった。

 

もののけ姫が強く自然というものを意識しているのも確かだ。そのテーマ性は、だが、直接的とは言えない。おっことぬしは死ぬし、しし神もあっけなく首を刎ねられるが、それを何かの象徴とは見ない。というか、そういう見方をしたら途端に作品が詰まらなくなる。

 

こうしてみると宮崎駿が如何に社会とのかかわりの中にメッセージ性を託してきたかを考えざるをえないのだが、息子にしろ、弟子にしろ、それを受け継いだようには見えない。または弱い。または陳腐。

 

不幸にして、これだけ才能豊かな監督たちではあっても、所詮は土星や木であって、太陽の前では霞んでしまうのも仕方がない。

 

そこで、「太陽を乗り越える」という物語が生まれるわけだが、それがどのように描かれているかはとても重要なメッセージになるだろう。ただし、それだけなら、やはり物足りないだろう。乗り越えるためのメッセージだけでなく、監督自身の中からどうしても滲み出てくるメッセージは何か、という話だ。

 

ジブリがこうして続くのは喜ばしい事だ。彼が正当な後継者だとすれば、じぶり色の映画がこれからも上映されるのである。だが、宮崎駿色でないジブリ系統に何か惹かれるだろうか、という点が勝負である。

 

宮﨑駿でないジブリとは何であるか。俳優の性的魅力でしか勝負できない邦画とは異なり、アニメはメッセージ性が極めて強く出る。なんだ、これは。この世界観はなんだ、この描き方は何だ、これを作った人は何を追求しようとしているんだ。そのこだわりの強烈さが。印象深くて、優しくて、でも突き放していて、意味わかんねぇだろう。俺はこれだ、お前はどうだ、と問いかけてくる作品。

 

描いている人の腕の動きが見えてきて、鉛筆の音が聞こえてくるような作品。作っている人間たちが見えてくる作品。

 

いつの間にか知らぬ間に引き込まれていたい。くだらないと思いながらチラ見したらもう止められなくなった。そういう裏切りを待っている。