異なる世界観を表現する漫画と映画。まったく同じストーリー、登場人物であってもそれを支えるリアリティは全く異なる。例えば、牛乳という同じ素材を使ってもチーズとプリンでは全く違うのと同じである。
更にはシェフの数だけ素材の扱い方が異なってくる。それを一言でいえば、映像が持つ色調の違いはクリエーターの数だけある、と言ってよいだろうか。同じ青空にもそれぞれの空色がある。
一本の映画を作るのに監督は多くの人を率いる。数十人、いやもっと多く数百、数千人を束ねてひとつの方向に向かうよう強要する。誰もがドナドナのように従順なわけではない。はねっかえりや、悪意、妬み、嫉みにも対抗しなければならない。そういう大勢をおだて、すかし、脅しながら作品を完成させる。
その苦労を支える強靭な精神は一国一城の主のそれであって、鶏口となるも牛後となるなかれという、クイーンエメラルダスに著名な海野広のセリフが思い返される。
という驚嘆と称賛をもってしても、この実写の世界観には違和感を感じる。ウィンリィが手にしているスパナのサイズからして、なんだそれ、って感じである。それがやりたいならアニメでいいじゃん。これもまた他と同じコスプレの延長?そういう観客を満足させればいいというビジネス?という感想である。
もちろん、そういう世界観が悪いという話ではない。そういうものは好き好きの世界だから好みの問題である。最初に見たとき感想は、夕焼けの色や青空の色が、これは監督が狙ったものだろうけど、今風という感慨であった事だ。
いわば、現代のアメリカの片田舎、ロケはヨーロッパらしいけど、駅の感じは、日本の大正時代か。風立ちぬはたまた帝都大戦か。
この青空も夕焼けも確かに、僕の中にはない世界観であるから、どれだけイメージと乖離していようともそれは監督のオリジナリティなのだろう。それが違和感の正体だとしても、それは監督が狙ってそうしているわけで、それが好みに合わないというのは、監督の都合ではなく、こちらの何かを表明しているに過ぎない。
では、実は何が気に食わなかったのか、というと疑問が明確になってくる。もしこの世界観に、錬金術が何ひとつ登場しないのなら問題ないと思う。だがここは錬金術が当たり前の世界である。そのような世界が、この世界と同じはずがない。
確かに漫画で描かれた人々の暮らも建物もインフラも19世紀のそれという感じがあって、そういう点では実写もまた忠実にそれをなぞろうとしたのであろう。だが、漫画にはあえて描いていない線がある。それを実写にする時には描かざるを得ないのである。ないはずの線を描くように強制される、またはあるべき線を取り除く。これは高畑勲がじゃりン子チエをアニメーションにするときに取り組んだ課題ではないか。
実写は否応なしにそういうものを強要する表現である。この間の乖離をどのように埋めるか、漫画が描いていたものを如何に取り除くか、漫画が描かなかったものを如何に描くか。その点でこの世界観には満足できない。
鋼のは現代社会に、錬金術師が数人登場したという世界観ではない。もっと言えばこれらのポスターから匂ってくる世界観は20世紀後半のそれであって、19世紀という感じもしない。
もちろん、そんなことはこの監督だって百も承知で制作したと思う。何が悪いって話がしたいわけではない。たんに「わたくしの好み」を語っているだけの話である。