たとえば電車でお年寄りに席を譲った若者は褒められても、はじめから座ることを遠慮して立っていた若者は褒められたりしないん たとえばトラブルを回避し続けるより、起きたトラブルを処理したほうが腕が良さそうに見えるん こうして気が利きすぎる人は、普通に気が利く人に手柄を横取りされているん
— アミエッタ (@kirietta) 2017年8月3日
椅子に座ることで得られるリスクは、席を譲るというイベントだ。明らかに譲るべきである場合は割と簡単だが、流星人間グレーゾーンはどこにでもある。
さて臨月な方だろうか、それとも Fat を人より多めに持っているだけの方だろうか。この方は老人か、それともただ老けて見えるだけの人か、さてこの人は困っている障碍者か、それとも困っていない障碍者か。などなど。
譲ればいいというものではない。譲る事が迷惑になる場合もある。そして譲られた方が断るのもまた新しい問題を生むわけである。
そういう機会から逃れる方法はひとつ。椅子に座ることを放棄することだ。席に座らなければ問題は解決する。そう考えれば、評価されたいから座らないというより、評価されたくないから座らないという選択をしたように思える。
もちろん、座らない以上、その席を若い人が座っていて、困った人に譲らないとしても、それは自分の問題ではない。ある問題に関知しないことは、別に無関心というわけではない。単に自分にはその問題は難しすぎる、という態度表明だ。
席に座る以上はそっとやそっとでは譲る気はない。疲れているのはこちらも同じ、こんな時間にいるあなたが悪い、という態度だって十分に納得できるのである。だって座っている若い人が明日には過労死してしまうかも知れない。そういう人に限って席を譲ったりする。
つまり、悪意であろうが、善意であろうが、すべては塞翁が馬、結果と関連付けて考える以上、答えは得られない。そのような問題にはタッチしない方がよい、という態度にだって説得力はあるのである。
だけどこのツイートをした方は別に席を譲る譲らない問題を問いたいのではなかろう。この人は、「トラブルを回避し続けるより、起きたトラブルを処理したほうが腕が良さそうに見える」という点を問題にしたいのだと思う。たぶん、そういう理不尽を感じる機会が最近 あったのだろう。
トラブルを解決する人よりも、トラブルを起こさない人の方が目立たない。というのは漫画にもよくある。すべてが順調で毎日定時に帰ったりするもんだから、社内での評判はいまいちである。隣に火を噴いている部署があってもお先に~と帰る。
みんな腹立たしく思うかも知れないが、問題はそこにはない。火事の見学人が放火魔よりも非難されるいわれはない。
この問題には次のアクターがいる。
- 放火魔
- 消防士
- 見学人
すると、火事を起こした人と消火した人が同じ人か違うひとかは大きな問題だ。火事を起こした人がいる。その人が火事も鎮火したのなら、単に自分のけつを拭いただけの話で終わる。危なかったな、ぎりぎりで助かったな、という話だ。
もし、他人が起こした火を消したのなら、これは評価されてもいい。他人の問題を突き詰めて、それに正しく対処したからだ。よくぞ救ってくれた、君がこの部署を救ってくれた。
さて問題と核心となるのは、火事を起こさない人が、果たして優れた消防士と言えるだろうか、という点にある。それは火事を起こしてみなければ分からない。
となるとこのツイートをした人は、おれは消防士として毎日 火事を起こさないよう見回りしているんだ。だから俺の担当区域を見ろ、火事は起きていないし、あってもボヤ程度だ。
だが、新聞の一面を飾るのはいつも大火事の中から誰それを救ったとかいうヒーローみたいな消防士だ。おれの上司はそういうのが好きなんて、嫉妬しちゃうぜ。
上司の役割というのはとても重要だ。正しく部下を評価する能というものはないから、自分で育てるしかない。大山巌という人は若い時分は才溢れていたが、年を取ってからばウドとなるように努めたと聞く。
五味さんのような上司が欲しいなぁという話ではないか。