「けものフレンズ」監督降板騒動、関連企業に飛び火

 

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不買運動は資本主義に則った合理的な行動ではある。コンテンツに対する資本の流動の主体が企業にある以上、企業への圧力がコンテンツに与える影響は皆無ではない。

 

だが、ネットでの話題や動向が一般社会の動きと関連に連動していない事は、明らかである。どれほどネットで話題になっても、多くの人は知らない。そして企業こそ民主主義的な選択をする。

 

例えば、テレビや新聞の顧客が企業からの広告である以上、彼らの行動原理は企業の方を向いている。その点で、本質的にテレビや新聞に報道の自由はない。それをしようとするなら、企業に寄生するような体質を身につけなければならないはずだ。

 

同様に企業にとっての顧客が市場である以上、市場の動向、これがほぼ世論と同値である、に従うのは当然である。そして、ネットでの反応が無視できないにしても、それに応じるだけの必要性があるかという話になる。

 

熱心なファンが全体の何%いるのか。そして影響力がどれくらいあるのか。それが分岐点である。だいたい、この世界のほとんどの人は、けものフレンズの監督など知らないで生きている。そして、次の作品が他の人だったらどうなるかにも興味はない。

 

そこには二つのその後の世界がある。やっぱり思った通りだ、たつき監督じゃないとダメだったじゃないか。なんだこのクソみたいな世界は。ちっとも面白くない。という世界と、あれ、意外と悪くない、新しくなっているが、この世界観もありと言えばありだ、また別の世界観として決して悪くない。という世界と。原作厨が支持しない作品が決して駄作ではない例はたくさんある。例えば、ビューティフルドリーマー

 

つい最近、フレンズの全話を見た。最後の三話はかなり面白かった。最後に全フレンズが登場した時には、まるで戦隊ものかと笑ってしまった。つまり面白かったという事。

 

作品全体で言えば、これCGで作られていると思うんだけど、顔の上げ下げがローニャに似ていて懐かしくなった。

 

この作品は、そもそも謎を残したままなので続編をかなり意識した作りになっている。そしてそれが監督からの視聴者へのメッセージならば、当然だが続編を意識したものになっているという事だ。ならば同じ監督が作るほうが自然な流れだ。

 

では何故カドカワはそうしなかったのか。その判断基準は色々な人が様々な推測をしている。逆に言えば、それをカドカワはそれを誠実に表明すれば良いだけの話である。企業には企業なりの戦略がある。それがファンの思惑と一致しないことなど幾らでもある。カールは東日本から撤退した。Windows には何かしら不満がある。

 

だから、表明しないのであれば、そこには「言えない何かがある」と考えるのはファンからすれば当然だし、だからオープン化が重要なのだ。人に伝えるのに誠実以上のものはない。常に正直であるのは愚かかも知れないが、常に誠実である方がいい。

 

彼らは監督の降板に反対しているが、本当に言いたい事は、理由を教えろ。理由が言えないのなら言えない理由を言え、という事に尽きる。降板した理由が言えない理由の言えない理由、というメタ構造に付き合いたいわけではない。ただ賛成反対はあるにしろ、理解できる理由が欲しいのである。

 

それがフレンズというものだろう。

 

だけどね、かばんちゃんというヒトが色んなフレンズと平和に共存する物語がね、そのままハッピーエンドに向かうなど、僕には信じられないのだ。サーバルちゃんが実験動物として売られてゆくバッドエンドが頭をよぎる。ララララ ララララ。