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書き溜めの集積場

井山が史上初2度目の7冠=囲碁名人戦でタイトル奪還

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あ、負けてしまった。昨日の感じでは勝てるかもって流れだったが、十七子を捨てて、他で勢力を張ったらしい。すごい。

 

内容がどうこう言えないけど、高尾紳路には勝って欲しかった。なぜなら、層の厚さがタイトルの価値をより一層上げるからだ。

 

日本囲碁界は世界の中では三位の位置にある。世界No1は間違いなくアルファ碁だ。次点にAiが幾つかと中国の柯潔9段。更に中国、韓国の棋士がばらばらと続く。

 

井山裕太は世界でTop5くらいらしい。すると日本の7冠の上にあと四人も人間がいるのかぁという話になる。いや別に構わないんだよ。

 

強さだけが全てではない、という風にプロがなってゆくのは当然であって、ボルトがどれだけ早いって、スーパーカブを走らせる僕の敵じゃないのと同じだ。

 

プロである以上、面白さの提供が至上命令である。その面白さ、はもちろん、分からないから面白いのであって、答えが見えているものが面白いはずもない。そして力の程度が異なる大勢のファンを相手にする以上、解説が重要になってくる。

 

これが不思議なことに、漫画は読み手の力量などを必要としない。思った通り、感じた通りの好きに読めばいいわけで、それで面白いと思わないからといって、物語を読む能力がないなどとは言われることはない。単に好みの差に過ぎない。音楽などドの音とレの音が区別できなくたって十分に感動できる。前提とする知識の量が低いのが特徴的である。

 

では、スポーツはどうか。僕たちは選手の技術が全くわからない。体操であれば筋肉の力で支えてるくらいにしか見ていない。フィギュアスケートなど、やはり美人は高得点だねくらいにしか思っていない。100m走など0.01秒を埋めるためにどれだけの技術と集中力を投入することか。そんなの分からなくても、見た、勝った、負けたと盛り上がることができる。スポーツの多くがルールを簡単に誰にでも理解できる方向に進んでいるのは何かの暗示かも知れない。

 

観客を必要とするイベントには何らかのパターンが見出せそうだという話である。まずは映画や音楽のように情報や知識を必要としないもの。クラシック音楽だって別に素人だって楽しめる。例え、その道のプロが聞く音の旋律の美しさや間違いに気づかないとしても。

 

次にスポーツ。技術的なものがどうであれ、有利不利くらいは何となく分かる。細かい事までは分からなくても、全体の趨勢というものがあって、そこで揺れ動く勝利と敗北のスパイラルを楽しむことができる。

 

囲碁や将棋、チェスもそれらと構造的には同じであるが、いかんせんルールも知らない人だと詰まらないだろうと思われる。ルールを知っているだけでも足りなくて、ある程度の動きが分からないと飽きるだろう。打ち込んだ一手の凄みと言っても解説者が驚いてくれないと分からないのである。

 

これらの観客に対する違いは、解説者の有無と密接的な関係にありそうだ。もちろん、亀田音楽専門学校のように音楽でも解説されれば面白い話はたくさんある。それでも、音楽を聞くときに解説はいらない。同時に味わうことはできそうにない。

 

スポーツでも解説者が不快だからと音を消して楽しむ人もいれば、落合博満の解説は神級と呼ばれる場合もある。これらは解説があってもなくても楽しめる。またライブならば、ふつうは解説はないものである。だが臨場感が全く違う。それは音楽に近い。

 

囲碁、将棋などは余程の力がある人でなければ解説不要とは言えない。というかそれがなければ恐らく楽しめない。更に言うなら、対戦している部屋からは人が排除されている。つまり臨場感は味わえないのである。

 

すると臨場感と解説者の重要度は反比例の関係にあると言えそうだ。この関係性とイベントの作り方はとても重要に思える。そして解説者の占める割合とゲームが持つルールとの関係性も密接だと思われる。

 

ま、7冠おめでとう。そして失墜、残念。雰囲気だけで言えば、この棋譜はとても面白い内容のようだ。それは、ありがとう。