龍馬や松陰は不必要? 高校の歴史用語「約半分に」案

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最近の学業の見直しにどのような意図があるのかは知らない。学者であるのか、教育者であるのかは知らないが、議論はスカスカに見える。言い方を変えるなら対処療法に過ぎないのである。そこに教育とは何か、学習とは何かという議論はないように見える。

 

では彼らが目指しているのは何か?歴史から様々な人名を外したいのは、なるべく暗記を減らすことで、歴史のエッセンス、一番重要な所だけを『覚えてほしい』という話である。

 

この考えを進めれば、国が教える事だけを知っておけば十分である。それ以外はお好きにどうぞ、である。

 

こういう流れが生まれるのは、とても簡単で、教育には学習指導要領が策定され、それに基づいてすべての学習が計画される。その行き着く先は、要するにひとつのテストで全員の学力を図りたい、という社会的要請だけである。大学が如何に個性的な設問を生み出そうが、この流れから1mmだってはみ出してはいない。

 

これだけを押さえておけば十分ですよ、という話だから、歴史好きからすれば、そんな馬鹿なとなるし、そうでもない人からすれば、知らなくて本当に大丈夫と不安になる。

 

もちろん、この計画を立てた人たちは、それ以上を知る事を禁止するのではない。だが、多くの人は不要とされるものを学ぶ気などない。πを3にして教えようとした時、それに反対した人がどれほど多かったか。

 

その理由が3では六角形が円と同じになってしまう。程度の理由だったのだ。確かに工学部の人が円周率を3で計算したら動く機械など作れそうにない。だが小学生が3で計算したところでなんの実用上の問題があるか。

 

もし指摘するなら、πを整数にすると小数点を使う計算に慣れなくなる。それが結果的には、計算能力を落とすのではないか。それに対する国の答えは時間にゆとりを与えるので様々な工夫を取り組めば対応できる、であったが、そもそも柔軟に行動できる人材がこの国にいない事が明らかにしただけだった。

 

この国の人々は国に言われた事を従順に守る気風である。そこから外れる事を嫌う国民性がある。だから国が教えないと言ったらそんなの困るという。自分で漫画でも小説でも読ませておけば済む話ではないか。そもそも坂本龍馬なんざ、司馬遼太郎がいなけりゃ誰も知ることもなく人生を送ったはずである。

 

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(この記事によれば戦前の教科書から坂本龍馬の名前は載っているそうである)

 

問題はそこではない。

 

国がいつまでも「ひとつのテスト」で学力を図ろうとするその態度である。歴史の教科書など覚えきれないくらいの人名であれ、事件であれ載せればいい。その中から子供らが勝手に興味のある時代を覚えてゆく。ある子供は江戸時代はさっぱりだが、鎌倉時代はよく知っているね、とか、ある子どもは幕末は強いが、平安時代はダメだね。それでは何故いけないか。

 

一年という制約の中でできる限り教えようとすればこうなるのは当然である。なぜ一年なのか。なぜ記憶する範囲を制限するのか。明らかにこれは歴史に対して傲慢な態度なのである。

 

全ての時代をまんべんなく知っておく事がどれほど重要な事か。そう聞かれた時に、本当に納得のいく答えが得られるだろうか。もしそれに答えがあるならば、自分の常識が世界の常識であると主張できる人だけではないか。

 

世界は広い、それは暗記なんかで追いつけないくらいである。そのような状況でなるべく知っていることが優秀であると判定するのは、さずがに時代として古い人材と思われる。もちろんなるべく知っておく方がいい。考えて答えるよりも、知っていて答える方が早いからだ。知っているとは、他の人に先んじて、考えていたという証拠でもある。

 

そういう流れが、神童を重視し、早熟な子供が有利となる教育システムを構築するのは当然と思われる。人の成長はそれぞれ異なる。早く成長する人もいれば、ゆっくりと成長する人もいる。伸び率が短期的に著しい人もいれば、緩慢に長く続く人もいる。

 

なぜそれを一律にしようとするのか、なぜ多様な学力を測る方法は見いだせないのか。これはネジを作る方法である。なぜ子供の学力をQCとして扱おうとするのか。

 

もちろん、早熟で優秀な人材を早く見つけて、手厚く育てるのは重要なのである。そういう人材が国外に旅立つよりも国内の環境を整備する方がよいのである。

 

それに適切な教育はこれではなかろう。この国は平凡な人材の総合力で勝負する所がある。天才など居なくても十分に対抗できるぞ、というのが、この国の教育の基本方針である。それを達成するために底上げを重視する。

 

その底上げは、一律と多彩さのバランスの中にある。この決定はそこまで考え抜いた結果とはとても思えない方向に進もうとしてるように見える。ここにあるのは、学問でも教育でもない。実施者の都合である。一年という教育システムからの時間的制約があって、その先にあるのがテストであることは間違いない。

 

そういう機構の中で教育がテストに特化し効率化するのは自然な流れだ。もしそうならば、教育という言葉を取り外せば全てがすっきりする。

 

これは人材を成績順に順列化するためのシステムの話なのである。それを実現する方法を考えているだけなのである。こんなもの教育でもなんでもない。

 

掛け算順序であれ、歴史からの人名削除であれ、向かう方向はひとつである。〇が欲しい、一点でも納得のいかない減点などごめんである。それしか主張されていない。どのような批判も学校の採点システムから外れる事だけは絶対しないのだ。

 

学校のテストなど60点も取っていれば十分である、百点など言語道断、今教えている内容も20年もすれば10%は間違いになるのである。そんなものに100点とる努力など意味がない。

 

そんな意見はありえない。やる以上、一点でも多くを欲す。この流れからは誰も外れない。