民進・希望の統一会派合意が白紙 通常国会は別々で

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誰がやっても敗戦処理は辛いものである。もちろん、敗戦に転じる戦をした人だって辛いだろうが、それよりもずっと評価が低いのである。敗戦の将は、マイナス評価が歴史に燦然と名を残す。そのうえで、再評価される可能性も高い。

 

山本五十六の名を知る人の数は、鈴木貫太郎の名を知る人の数よりも多いだろう。東条英機の前では、東久邇宮稔彦王など、いわんや、なお。

 

政治家の敗戦処理の直近としては、自民党が下野した時の谷垣禎一総裁が思い浮かぶ。その時の舵取りは、うまくいったように思われる。自民党の与党奪取は、もちろん民主党の自滅(鳩山の自爆)が主因であるが、その時に、よく支えたから実現したとも言える。

準備した人だけがチャンスを掴める(Chance favors the prepared mind)

 ルイ・パスツール

 

詳細は一切知らないが、与党になった時に、露骨に左遷されたのも味のある逸話である。もちろん、当人にその意識があったのかも知れない。自分は野党の党首ではあっても、与党の党首の器ではない、そういう考え方もありうる。

 

大塚耕平は、注目すべき政治家であるが、その切れ味は、参謀タイプだと思う。岡田克也(のような堅物)でも民主党を率いたのだから、彼に無理という話はない。だが、人の上に立つよりも、支える側という思っていた。そう考えたのは、現場に強そうというイメージがあるからだ。

 

だから、民進党の党首、もちろん、半分は倒壊しているわけだが、とても違和感があった。この人の貫禄ではない。そういう政治的行動も不得意ではないのか、と思わたのである。

 

「政策」は民主党が政権を奪取するために全面に押し出した手法であるが、結局、政策では足りないことを露呈しただけで終わった。この国の政治は政策だけでは動かない。なぜなら、政策は未来への見通しを語るが、現実は、その大前提さえも奪う事もある。大前提が崩れれば政策は意味を持たない。

 

よって政策だけでは政治は回らない。そこには様々なものが必要であって、それを担うのには、「アーにはアーの、ベーにはベーの」という話が登場する。

 

それらの人材をまとめるのに、今年の大河である西郷隆盛は優れていた人であったらしい。もちろん、それで歴史が終わるわけもなく、西郷は最高の江戸時代の人材であったが、明治時代に相応しい人材ではなかった。

 

いずれにしろ、大塚耕平の立場は難しい。だれがやっても負け戦である。強力な自民党と対抗するには、大連合を組むしかないのは自明である。しかし、烏合の衆で戦えるような相手ではない。そんな集団は短期には成立しても、長期的にはまた分裂するのが目に見えている。

 

そこでどのような政治的行動を取るのか。ソビエト連邦を前にしたリトアニアは、どれだけ強力に抵抗しようと侵攻からの逃れられなかった。一方で、独立を死守したフィンランドも、決して自力だけで対抗したのではなく、状況もうまく味方にしたのである。

 

いずにしろ、民進党は死に体である。これ以上の延命は無理だ。すると、速やかな転戦(撤退)だけが必要である。

 

それを希望の党に見出したのは筋悪とは思うが、枝野陣営に全員一致して合流しなかったのにも、それなりの理由があるはずと考えるのが妥当である。

 

群雄割拠になるには自民党が3つくらいに割れたらいいのだが、現実は、巨大な自民党の前で小さな野党が3つに分裂している状況である。

 

幕末でいえば、蛤御門の変で撤退している長州みたいなもんだが、残念ながら、野党側に薩摩がいない。希望も立憲も薩摩とまでは言えない。中国大陸の歴史に詳しければ、これを例えるのにぴったりな時代を思う浮かべるかも知れない。

 

現在の野党は非常に辛辣な状況にある。逆に言えば、これほど面白い状況もないはずである。「無事の橋本、平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」でいえば、乱世であろうか。だが、乱世の大塚、ではない気がする。

 

大勢力を築くのに希望勢力は外せない、だが、小池百合子になびくようでは、圧倒的に政治的嗅覚が足りない。そういう連中が烏合している状況にその配下に合流するのは得策でない、と考えるのも理解できる。

 

一方で小さくまとまっても各個撃破されるだけではないか、という第六艦隊も分かるのである。だが、今は撤退戦である。恐らく、各自バラバラに自由に行動せよ、ここで解散する、という話に落ち着くのだろう。

 

それを無責任と感じるから移動先を探しているのだろう。という事は、こういう状況を作り出しているのが、実は立憲である、というのは注目に値する。移動を拒む何かが立憲にはある。憲法問題か、原発問題であるか。

 

だが、希望のカウンターとして誕生した立憲には、ここでクロスラインするにはいかない事情がある。そんなことをすれば、自民と対決する前に瓦解してしまう。彼らは分かったうえで、対立軸を鮮明にしようとしている。

 

希望と立憲で対決をしてどちらかを屈服させるまで、自民とは決戦できない。これが基本的な構図であろう。それを可能にするには、自民党の分裂が必須とも思えるが、まだそこまでは難しい。いかなる政策も、目の前のベネフィットの前では無力である、その利益を自民党が握っているかぎり手放すはずがない。それを思い知ったのが民主党政権であろう。

 

日本にはどうも政党という考えがなじみがない。江戸時代に藩という構造がしみついたので、地域ごとのまとまりは強いが、同じ思想や信念に基づいた集合がない。企業でさえ、思想というより地域コミュニティの代替である。

 

我々は政党を選ぶという訓練を受けていない。どういう理由で投票するかを決める根拠には何があるのかを列挙する方法も知らない。エマニュエル・トッドではないが、家族制度の延長線上に政治家がいる。おらが村の先生、その延長に政党がある。

 

これは都市層に住む人も同様であって、この人を選ぶ。だからこの政党にするという行動様式が主体であろう。そして、この選択に、政策は何ら影響しない。また選択を決定するほどの明確な違いはない。

 

安倍晋三の活動でさえ、これまでの日本の流れの中では過激である。だが、ひとつひとつの政策を見れば、他の国では当たり前のものも多いのである。我々は先の戦争の負債をまだ払いきっていない。それが足枷になっている。

 

そう考えるのは愚者のそれであって、我々は負債を払い終わっていないのではなく、我々の欠陥を修復していないと考えるべきである。船体に空いた穴を、戦後の突貫工事で塞ぎはしたが、それは応急処置に過ぎなかった。

 

それをきちんと処置してから大海に乗り出すべきと考えるし、それさえすれば、政策として忌避するものはあまりない。ただ、この愚者が私欲に走り、何も理解せず出航しようとするから反対しているだけである。

 

いずれにしろ、民進党は命数を使い切った。政治という海に乗り出すのに船は必要である。だから船が壊れたら、他の船に乗り移るべきである。船と運命を共にするなど、引退を考える政治家以外が取るべきではない。

 

だから、小さなボートで各自が自由に脱出するのか、大きな船に横付けしてもらい乗り移るかである。残されたオプションは少ない。残務処理というのは非難だけが残り苦労の報われない仕事である。

 

それでも、ここには、政策だけではない何かがある。日本の政治的状況では政策ではない何かが希求されている。そして国民性で言えば、この国はキャラクターがものをいう社会ではないか。

 

それはヒットラーを彷彿とさせる危険な方法である。維新の会は実際にそういう行動で動き、失敗した。都民ファーストも同様であった。だが、それを言えば、トランプだって同様であろう。別にだれかをカリスマにするのが悪いわけではない。

 

だが、天皇を中心に据えた結果、身動きの取れなくなった戦前を思えば、やはり注意すべきなのである。だが、どうやらそれしかなさそうでもある。それをとても強く警戒した、先人たちは江戸時代には大老という行政権力を編み出した。権力と権威の分立というのは最も基本的な政治体制であろう。