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書き溜めの集積場

シャルリー・エブド襲撃事件について

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この小さな、しかし世界中を賑わせた行為には色々な見方がある。少なくともテロという言葉はなんと便利であるか。実際の所、これほど何かを言っており、かつ何も語っていない、使い道のない言葉であることを意識させた事件はあるまい。

 

911以降、テロは問答無用の正義であった、少なくともアメリカの軍事行動を支えた思想であるし、ヨーロッパにおいてもそれを追従した。これに早急に異を唱えた人は、職を追われたり、不遇に甘んじなければならなかった。

 

それと比べればこの事件は、テロ=悪と断言できないという思われる。こんな当たり前の、単純な話に社会が気付くのに西洋の文明をもってしても10年を費やしたのである。

 

これを言論と暴力の対比とする見方もあるだろう。しかし言論や絵画(映画、映像も含む)も十分に暴力的であるという視点は必要である。そうでなくてはこの事件を読み解くことは難しいと感じる。その証左としてはリベンジポルノを例証すれば十分であろう。

 

イスラム教とキリスト教の対立という視点や、宗教を隠れ蓑にした人種差別、格差問題、経済的貧困の表出という見方も可能である。

 

どのような視点で切り取っても、満足できる答えには辿り着けない気もする。または、辿り着いてはいけないのかも知れない。なぜなら、満足した場所には、この問題の解決は存在しないからである。

 

言論の自由という立場と取る人は、言論には言論で返すべきという考えがある。しかし、同じ言論と雖も、出版社やテレビ局という準権力機構と個人の間には、同じ言論の自由を権利として有していても、圧倒的なパワーの格差がある。

 

それは大量の金で優れた弁護士を雇用できる企業と個人が裁判を争うようなものである。このような経済格差に起因する権力的不平等については、現代はなお野蛮状態と変わらない。自然状態と呼んでも差し支えないかも知れない。

 

誰もが有する同じ権利が、金銭的理由から格差を生み出すのがこの世界の正義であるか。またはそれは我々が許容すべき状態であるか。答えはない。

 

いずれにしろ言論の自由は暴力を忌避する。なぜなら暴力の前で屈しない人間など存在しないからだ。これが大前提にあるから、言論の自由に価値がある。

 

その言論が暴力と同じ機構と同じ働きをする時、貧しい者はどうやって対抗すればいいだろうか。他人を嘲り笑う者は、笑われた者からの反論など聞く気などないはずである。それをやめてくれと何回言われたことだろう。それでも彼らは止めることはなかったはずだ。

 

この社会では誰かと対立した時に争う手段として裁判である。そうだ、この事件の違和感は、なぜ彼らは裁判に訴えなかったのか、という点にある。そして、もちろん、理由は明白である。裁判に勝てる見込みなどなかったのである。

 

暴力と言っても、頬を平手打ちしたものから、障害を残すような大けが、更には殺人まで様々である。村一つを虐殺し更地にした例も戦争中にはある。戦争であるから許される訳ではないが、戦争中だから有耶無耶になっている暴力などごまんとある。勝利した軍隊が自ら律したという話はそうそうに聞かない。

 

思想としての人権であるとか言論の自由など、権利としては等しくあるが、その実効は自由でも平等でもない。格差は単に経済だけの専売特許ではない。権力も経済も格差の温床である。

 

言論には言論で返すべき、その最終場所が裁判である。その時に基準となるものが法である、別に近代国家だからではない。ソクラテスはまさにこの方法で弁明し、法に基づき毒を仰いだのである。

 

近代国家が復讐を禁じ、犯罪を裁き罰則を与えるのを国家に限定したのは、復讐権を国家に預けさせたからである。他の人の利益を確保するためには、正当な手続き、つまり裁判を通してやらなければならない。勝手に復讐するとは、正当な裁判を受ける権利を許したことになる。国家に参加する時に、復讐する権利を国家に委譲し代理させた。そういう考え方である。

 

ホッブズ、ロック、ルソーの社会契約論が近代法の根拠としてある。人間の自然状態を仮定した時に、これを不完全な状態と見做し、社会契約により完全性を目指す。自然状態は不完全であるから、復讐権もまた不完全な状態での行使と考える。それを裁判という方法で正しい手続きに遷移したのだから、復讐権は不要になったと考える。この場合、復讐は常に許されない。

 

しかりロックが言うように個人は社会に対しての革命権を持つ。この革命権の穏やかな行使が普通選挙である。かつて革命は暴力であった。それを暴力ではない形で取り込んだのが近代国家である。近代国家では、暴力は言論と対立する軸ではなく、社会と対立する軸である。

 

故に、言論による闘争が社会の中で行われるのに対し、暴力は社会の外で行われる闘争である。暴力は社会の外で発生する。故に暴力には社会という殻を破壊する力を有する。

 

これに見落としがあるとすれば、言論は常に暴力的ではないと仮定している事であろう。もし言論に暴力的側面があるなら、言論の自由にも、暴力的な側面を内包しているはずである。この場合、言論は暴力と何も変わらない場合がある、という結論に至る。

 

逆に言えば、暴力は常に社会と敵対するものではない、とも言えるはずである。よって、言論に対して暴力で反論することも可能な場合がある。ポイントはそのふたつが同程度のパワーで行使されることだ。

 

この事件は果たして揶揄した内容が死に値する程のものかという点にある。すると、それは社会によって違うとしか言えない。ある社会では死に値する行為が、他の国では、顕彰に値するかも知れない。

 

ここに異なる価値体系の対流がフランスという大地でぶつかり合っていると姿を見ることができる。中世から何度も交流し、十字軍などにより深く理解しあってきた筈なのに。西洋は今までで何を見て来たのだろう、中東は今まで何を見て来たのだろう。

 

どうもイスラムが過激になりつつある、目的は知らないが、そこには西欧をターゲットとした、暴力を蔓延させることを目論んでいるようなのである。そうする事で何かを得ようとしているようだ。この世界にもそれらの運動に協賛する人々がいる。少女を誘拐し自爆テロを仕掛ける人々もいる。

 

これはイスラム教が原因で起きた事件ではあるまい。現在の状況は偶々に過ぎない。もし歴史が違えば、キリスト教の人々がそういう事をしている世界になっていても何ら不思議はない。それが果たして経済に起因する問題なのか、どうか。

 

いずれにしろ、私たちは解釈の固まりとして存在している。その解釈がなぜ正しいのか、と問い始めれば、絶対の答えなどない。だから、神を求めることもあれば、問い続けることもできる。同じ本を読んでも全く違う解釈になるのは、異なる人なら当たり前であるし、自分自身でも年月が変われば違うのである。ならば、敵対することに不思議はない。

 

人間は思想によっても敵対しうる。相手を殺すこともできる。なぜ共存できないのか。その不寛容に答えがあれば、どれほど楽であろうか。

 

思想の違いが強調されれば、両者に違いが浮き彫りになる。違いあれば、差別が生まれるのも容易い。経済的格差があれば尚更である。人は誰も自分を悪人と考えることはできない。自分が善人であるなら、悪いのは自分以外に決まっているではないか。

 

太陽がまぶしいだけで人を殺す事もある。それを不条理と呼び驚く時代は終わった。今や飛行機でビルに突っ込んでも誰も驚きはしない。だから風刺画を理由に拳銃が撃ち込まれたとしても驚くには値しない。

 

自分が愛する人、存在を馬鹿にされたら怒るのが当たり前だ。目の前に銃があればトリガーを引かない理由がない。

 

この事件は出版社であることに驚いている人がいる。だが、そこにどんな意味があるだろう。彼らは理由さえあれば、スターバックスにでも突っ込むであろう。

 

もしスターバックスが爆破されたのなら、これほどのニュースにはならなかった。そこにこの事件の特異性がある。言論の自由という思想に驚いたのは、当のヨーロッパの人たちだろう。幻想、という言葉がこれほど似あう事件もない。

 

言論の自由の行き着く先にあるのものが、言論もまた十分に暴力であるという事ではないか。その事実から目を背けている。あれだけパパラッチを擁しているにも拘わらず気付いていないように見える。彼らは十分に暴力的である。言論においておや、経済も文化も十分に暴力的である。

 

問題は彼らが社会から追放した信じていた暴力が、自分たちの権利の中にあったことである。言論の自由を磨いてゆけば、暴力が出現する。

 

我々の社会は暴力を土台に建てれた家屋である。基礎を覗き込めばそこに暴力がある。権利を磨いてゆけばその先に暴力がある。近代とか権利という装飾を施してあるものだが、十分に注意して使わなければその本性を現す。匂ってくる。たしかリバイアサン(Leviathan)と彼らは呼んでいたはずだ。