ワンセグ受信料でNHK勝訴 高裁

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明らかに公共性を失い、既読権益の巣窟となったNHKに、司法の存在は無力であるばかりか、有害である。まず潰すべきは司法ではないか、という感慨を持つ。

 

では司法を失ってこの国にどういう制度を作り上げるのか。AIではその代替えにならないだろう、なったとしても判決理由は人間の理解を超えるであろう。

 

判決
主文:NHKの有罪。
Parameter1:1246
Argument1:5456
Result-1:360002
Result-2:230064589
以上の事由による。

 

というわけで、戦前に戻れではなく、江戸時代に戻れ、裁判はお白洲にて行えば十分である、という考えも悪くない。

 

当時、科学的捜査は貧弱であった。また江戸や大阪などの都市部には大量の浪人や地方からの流人も多かった。荻生徂徠は対策せよと提案している。このような理由で、当時は事件の解決も難しく、また冤罪もとても多かったという。

 

少なくとも、当時は自白が重要視されていた。これは魔女裁判などを行ったヨーロッパも同様であって、自白以外の証拠がない、という状況に対してほかに打つ手がなかったのだと思われる。例えば、現在の推理小説でも、人々からのヒアリングだけで解決できる物語を書くとしたら事件のほうをかなり特殊な状況にしないと成立しないであろう。

 

近代以前の体制の主な特徴は三権分立を持たないことだ。司法と行政は同じ分類になっていた。これが世界史を見る限りどこでも似たようなもので、三権分立こそが世界史上の奇跡というか特異なのである。ギリシャの賢人や中国の政治思想家たちにもこのような発想はなかったようだ(あるかも知れない)。

 

裁判官も警察もどちらも官僚であった。時代によっては裁判官とは王の代理、牧師、貴族などだったかも知れない。いずれにしろ、証拠をしっかりと吟味するいう点さえしっかりしていれば、司法というものは、特に刑事、民事事件において独立する理由はない。

 

では、なぜ近代国家は司法を独立した存在としたのか。おそらく憲法の審議があるからである。この最高地位にある法規に対して、あらゆる当事者であることから除外するために司法は独立、格上げされたと考えるのが妥当と思われる。

 

そのため国家において司法が劣化した場合に取れる手段は非常に少ない。というか革命しかないはずである。革命とは憲法の書き換えのことだから、それによって従来の裁判官を一掃するわけである。

 

もっとも、裁判官を従わせるのに憲法は必須ではない。一般的に人事か暴力で従わせることができる。この国の司法を眺めていればそれははっきりするであろう。

 

いずれにしろ、裁判官にも言い分はある。だが、それは裁判官という官僚という立場からの言い分に過ぎない。NHKという巨大な利権組織に対して、公共性を失った事業体に対して、司法は無力なのである。無力どころか、NHK側についた。

 

ワンセグにおけるNHKの受信料について純粋に司法的な判断を考えるのは、法学部の学生たちが喧々諤々の議論をすれば宜しい。もし自分が裁判官だったら、どういう理由でどのような判決をするのか。真面目に考えると返事に困る。

 

放送法における「受信設備の設置」が昭和30年の文明しか想定していないように思われる。携帯電話という移動体がテレビを受信できるようになった。だから受信料を払えというなら、それをアメリカに持って行って、NHKが受信できない、これは詐欺である、と訴えるのがよいように思われる。それで50億円の賠償が取れるなら、携帯電話が1000台もあればNHKを倒産に追い込める。

 

だが、裁判官はそんな判決を出さない。重要なことはNHKは敵である、その観点であって、ここは法律をまじめに考える場所ではないのだ。

 

まず、司法が市民の敵である。この判決において、裁判官は放送法の一部を重視したのであろうが、放送法が持つ理念も、その目指すべき理想も、なんら考慮していない。

 

NHK放送法に違反しているのか、それとも放送法憲法に違反しているのか。NHKが公共性を失っているとして追い込むのか、恐らく法律の専門家たちは一笑に付すであろう。つまり司法的手段ではNHKを廃止できないのである。

 

この巨大な利権装置を潰すのに司法は非力だ。行政には関心がない。つまり、立法しか残されていない。思えば小泉純一郎はなんの根拠もなく郵政公社を廃止したんだ。NHKは国営事業にして税金で運営すべきだ。公共性という偽善を振り撒かれるよりもその方が余程いい。