放送法の「政治的公平」撤廃を検討 政府、新規参入促す

www.asahi.com

 

放送法の原理原則は、電波法にあって、周波数は有限であるから、これは国が管理する。その上で、民間に開放するにあたり自由な利用はこれを許可しない。よって、国家が統制する形式になるのだが、この時、国家による支配、権益、命令などから自由であることを目的として設置された法律、と考えるのが妥当であろう。本当のことを学びたい人は、法学部に行くことをお勧めする。

 

第四条にある記載は以下の通り。

一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること。
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。 

 

もちろん、これを書いた人だって善良な風俗って何?ソープは善良?と聞かれたら答えに困るのである。政治的公平って何?と聞かれて答えられる人は知能に問題がある。事実って何?と聞かれて答えられる人は詐欺師である。

 

唯一4項だけは、17条の憲法の時代からよくある考えで親しみやすい。

ひとり定めるべからず。必ず皆とともによく議論すべし。細かいことはその限りではない。だが大事なことは間違いがないよう自分を疑へ。そのためには、多くの人に意見を聞け。それ以外の方法はない。

 

多くの視点には、合法も非合法も含む。現代は認められない意見も聞いておく必要がある。恐らくそういう意味でなければ価値がない。

 

すると、政治的な公平性と、いろんな意見を聞くの間にはなんら矛盾がない。なぜ政治には公平性が必要と書いたのか。もちろん、政治からの介入に対して放送局が法に従っていると対抗できるようにするためである。ここに書いてあるのはどれも証明できない。だから政府に対抗する武器になるのである。政府が反駁するためには悪魔の証明が必要になる構造にしたのだ。

 

と当時に、選挙における放送の役割は巨大である。知らない政党に投票する人はいない。放送の、広く人々に知らしめる能力は、戦争でいえば情報戦の最前線と同じである。ここを押さえた方が優位に立つ。政見放送はこの条項に従っているわけだ。

 

この程度の話は、昭和二十五年当時の官僚だって5分で思いついた。そこで、このような制限を入れたという事は、もちろん、戦争中のラジオ放送や新聞を見聞きしてきた人からすれば当然の危惧なのである。

 

政府は放送局をコントロールしようとするし、放送局は、巨大な利権があれば、それに唯々諾々と従うであろう。だから放送法を記載した者たちは放送に従事する者たちをこれぽっちも信用していない。だからせめて政府と対抗しようとする人が登場した時に、武器になるような条項を盛り込んだ。そう考えて間違いあるまい。

 

アメリカを見よ。FOXなんざトランプを支持することを公言し、明らかに公平でない放送を繰り返している。それでアメリカ人は困っただろうか?そんな話は聞いたことがない。FOXを閉鎖しろと運動しているだろうか。あるかも知れない。あってもおかしくない。だが政府がどうこうする問題ではない、と恐らく誰もが思っている。

 

放送局も偏りを持って当然である。彼らも人間なのだから。だから、FOXがあるならCNNもある。彼らはテレビの前でも真っ向から批判しあうだろう。いがみ合うことも、罵りあいもするだろう。それが、健全な報道である、とさえ思っているのではないだろうか。

 

アメリカでこのような事が可能なのは、当然だが、彼らの憲法がある。アメリカ人にとって、憲法こそが国家の理念、理想そのものであろう。あの条文のひとつひとつに書いてある事に、人間がこの世界に存在するに値する価値だと信じていると思われる。なぜなら、あの憲法には人間が到達できた、現代で考えられる最高の価値観が記載されているからだ。

 

アメリカとは、世界の縮図そのものだ。あの国の中で世界は完結する、それほどに多彩だ。この世界にあるもので、アメリカにないものなど殆どあるまい。あらゆる文化が民族が、人類が流れ着いた場所なのだ。だれもが絶望から逃れようと海を渡った。あの国が迎え入れた、それを支えてきたものがあの憲法である。

 

一方、この国はアジアの端にあって様々なものが流れ着いた。単一民族というよりあらゆる雑種の群れであってそれが江戸時代に藩という形で多様性を培った。

 

明治維新によってそれは失われてつつある。縄文系、弥生系というふたつの大きな体系に更に多様性を組み合わせたような国であるが、少なくともふたつの異なる価値観の対流と構図は、世界のどこでも見られるものだろう。中国なら陰陽、ヨーロッパなら神と悪魔であろうか。ニーチェは喜劇と悲劇を、田中芳樹自由惑星同盟銀河帝国を据えた。

 

現代は、そのふたつの片方が勝利しつつある世界に見える。グローバル企業の誕生は独り勝ちの世界を加速した。次にくる新しい経済の仕組みは ALL OR NOTHING 的に見える。シェークスピア的な TO BE OR NOT TO BE であるか。DEAD OR ALIVE が好まれるのも何か関係しているのだろうか。

 

それに呼応するかのように世界の国家は全体主義的な流れに乗りつつある。右傾化と左傾化の極端な対立が生まれて、混乱が加速しつつある。グローバル化と閉塞感はきっと関連している。22世紀のブロック経済は決して成功しないと思うが、ではどうすればよいのか、これに答えられる経済学者は二流だろう。

 

放送法から公平性をなくせば、放送局は強者に靡くという慧眼が自民党にはある。彼らは本気で長期政権を目指すための社会改革を始めようとしているのではないか。そのような社会改造の中で例えば良識だのというものが何の役にも立たないことは明白である。

 

いずれにしろ放送法から公平性を無くしても構わない。偽善な公平性よりも、悪意のある偏狭放送の方が望ましい。その結果、この国の報道がどうなろうと構わない。その代わり NHK はきっちりと国営にしろ。

 

どうせこの次に来る時代は国家を凌駕する新しい世界体制が到来するのだ。今更、国家の延命策を考えてどうする。