訃報から半日で「コナン」から「火垂るの墓」即断変更 日テレプロデューサーの決意「不朽の名作、今こそ」

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高畑勲の最高傑作が何であるかは人によって異論のある所だ。彼を認めない作家がいても不思議はない。作品ごとに新しい挑戦を続けていたのは、彼がアニメータでなかったからであろうか。今ある最高のリソースを投入して、何か新しいものを模索する。そういうテーマを持ち続けてきた作家だと思う。

 

その全体的な方向性は、かぐや姫でひとつの結実を迎えたようにも思えるし、いいや、あれでまだ途上だったのたよ、と聞かされても驚かない。

 

深夜にやっていたじゃりン子チエは途中から見始めたが止まらなくなった。彼の作家性の源泉に触れたような気がしたからだ。

 

おもひでぽろぽろの下手な声にイライラしながら見た記憶はある。柳葉敏郎の演技が臭すぎて最後まで頂けなかった。あれは、あれだ。シリアルキラーが最初に女性と出会った時の声の出し方だ。だが、不思議なもので、エンディングの The Rose を聞いた途端に許せたから不思議だ。

 

彼の作品の中ではぽんぽこが一番好きである。まず声がいい。清川虹子のそれで作品に一本の芯が入った気がする。これからお芝居が始まりますよと宣言された気がする。たぬきの描き方だけで5種類ある。それぞれが新しい画風を模索しているかのようで好ましい。

 

火垂るの墓。この一度みたらそれでもう十分な物語がなぜここまで忌避されるのか。なぜ誰もが一度は見ておくべき映画なのか。トラウマとはこういうものだぜ、というのをなぜ日本人は映画(や漫画)で体験しなければならないのか。

 

最後にホタルたちが飛び交う、兄妹がすっと立ち上がる。その後の歴史を知るものからすれば、この兄弟が多くの生き残れなかった子供たちのひとりに過ぎない事を知っている。死にかけた少年の横を通り過ぎてゆく大人たちが見える。あれが、1990年の駅であると言ってなぜいけないか。この作品によってはじめて供養された命とみなして何故わるいか。

 

何も希望もなく終わってくれたなら。それならこれだけのインパクトを残さない文科省好みの駄作で終わっただろう。ただの悲しい過去で終わっただろう。

 

あの最後の飛び立ってゆく蛍たちは希望の光であった。うっすらと飛び交う蛍の中で、節子たちは笑ってなかったか。

 

あんな希望ならいらない。と無自覚が訴える。そうなるように作られている。希望が残っていることが悲劇であるという古い物語を思い出す。なぜなら希望だけが過去から現在に繋がる一本の糸だからだ。ぶっつりと切り落とされた過去ならば、どれほど気楽に楽しめであろう。

 

そこから薄い光が差し込んでくる。これを過去などといって忘却させてたまるか。ここに希望がある。その希望とは何か、この栄養失調で死んでいった少年の中にさえ希望がある、あった。

 

死ぬことで解決するような問題などこの世界のどの場所にもない。それはただ中断し、そして停止しただけの問題だ。その問題は生きており、誰かが向き合い、誰かの手から別の誰かの手に受け継がれる。そのバトンを希望と呼んだでのはないか。高畑勲からバトンを受け渡された人はたくさんいるのである。それは生きている僕たちだけの話ではない。百年後にも彼の作品を見て、そう自覚する少年少女たちがいるだろう。