「めちゃイケ」支えた放送作家が語る「フジテレビのバラエティーが復活するには」

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フジテレビの番組には匂いが染みついている。それがいくら番組を刷新しても消えなくて、きつい。どうもスタッフたちの主張が強すぎる。こうあらねばならない、かくあるべし、それくらいなら、まだ良い。ザ・ノンフィクションなんかはそれ位の頑迷さがなくっちゃ面白い映像とは出会えないだろうから。

 

だが、お笑い番組でも、これが面白いでしょ、こういうの好きなんでしょ、こういうお笑いの押し売りだと見る気が失せる。イッテQが面白いのは「バラエティー」に限定していないからだと思う。あれは総合力で勝負しようとしている。

 

既に20年ちかく芸人として面白いと思った事はないが、ダウンタウンだって「お笑い」という主張はしていない。彼らの主戦場はお笑いじゃなくて人間観察にある。

 

結局、ビートたけしタモリ、さんまによる成功体験がいまだ忘れられていないんだ。それを今も熱く語っているから、若い世代にまで「伝説」として浸み込んでいるんじゃないかな。ほら、よく言うでしょう。「伝説」って言葉が好きなやつにクリエイティブなやつはいない、全員、燃えカスだって。

 

いまだタレントにフォーカスしている点がもう致命的。どの番組だって人選には命を懸けている。ピピッってくるのは、当然だけど良い人と巡り会えた時だから。だけどフジテレビのタレントって、自分たちの色にあった人を探しているだけじゃないのか。自分たちで戦場を狭く限定していて、総力戦に打って出る気はないように見える。そのくせゲリラ戦について学んだ感じはない。

 

変わらなければならないと叫びつつけて数年、これだけ変われない組織である。その低迷にこそフジテレビの存在価値がある。いま期待しているのは日本史上初の地上波の返納。徳川慶喜のいる二条城に向かって坂本龍馬が、あなたは立派な名君ですと叫んだと逸話を思い出す。

 

タレントにフォーカスすると言っている以上、興味の源泉が人間にあることは間違いない。その間違いのなさについて、真剣に考えるならば、タレントに限定する必要はないはずである。なぜフジテレビはタレントだけに固執するのか。なにか事情があるのではないか。要は、まだ簡単に楽して儲ける性根が残っているのだ。どこもチャレンジングではないし新規性も感じない。

 

フジテレビの没落はバブルの崩壊から始まっている、恐らく。カノッサの屈辱は非常に面白かった印象があるが、今見ても直視に耐えられないと思う。あれは、当時のあだ花だったのだから良かったのである。その夢が忘れられなくて、徒花の美しさに魅了された人たちが、この時代に売ろうとしてもマッチ売りの少女である。

 

もちろん、時代はスパイラルだから、もう一度近接してきて、当時のものが受け入れられる可能性はある。だが、それまで何も変わらず待ち続けるのは乾眠したクマムシの戦略である。

 

変わっていないためには変わり続けるしかない、という春木屋理論だけが答えではない。

  1. 変わらないために、変わり続ける
  2. 変わらないために、変えない
  3. 変わるために、変える
  4. 変わるために、変えない

 

フジテレビは「変わるために変えない」典型に見える。とんねるずもナイナイも終えた。その後がうまく活用できるかどうか。その結果は半年もすれば明らかになる。ただ、この変化も明白な変化だから、だらだらと続けるよりはきっと良いはずなのだ。これで何かが変わった、それは確かだ。ただ、タレントを変えただけで、面白くなさは変わってないよ、そういう話になるまいか。

 

人が自分の顔を変えられないように、フジテレビもその色を変えられなくて戸惑っている。彼らの成功体験こそが敗北体験だったのである。塞翁が馬の具体例である。

 

本気で改革したければ、アメリカの政府のように、これまで参加していた広告代理店、制作会社などを全て刷新するのも手だ。だが、それは社会的にインフラを担う企業としては無責任すぎる気もする。それにこの程度のオプションは既に検討済のはずなのだ。

 

方向性も決まらず手探りで出口を見つけようとしている。彼らは一から見直すというが、一度も見直していない部分もある。それは彼らの目標である。かつての栄光を、中興の祖をもう一度、この「夢」だけは掲げ続けている。

 

完全に自分好みに過ぎないのだが、警視庁いきもの係は面白かった。コンフィデンスマンJPも面白そうだが、演技がコミックに寄せすぎていて、自分の世界観と合わない。もう少し、現実離れした映像にしてくれれば、違和感は薄まるはずなんだけど。スコット・ピルグリム VS. 邪悪な元カレ軍団みたいに。

 

そうだね、フジテレビは映像が古いのかも知れない。それは照明の明るさかもしれないし、カメラの感度の問題かもしれない。音声の雑味とかも含まれるかもしれない。効果音や合いの手かもしれない。フォントさえそうだろう。

 

もしかしたら色味とか、そういう技術的な部分に対する印象が全てかもしれない。誰もが勘違いして表層に目を向けていたけど、無意識化にこそ答えはあったのかもしれない。それが色といえば彼らの伝統色なんだろうけど、そこを軽視し過ぎていたのか。問題はタレントにあるのではない。デザインの問題なのだ。

 

という印象。