海賊版サイト、NTTが接続遮断へ 政府要請受け初実施

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監視カメラは特に違法ではない。それどころか、犯罪の防止や検挙にも効果的である。少なくとも、三要素 Means, Motive, Opportunity のうち、機会について明らかにする。もちろん、これが明らかにするのは実行犯であり、犬や鷹ならばそれでもいいが、人間の場合は、実行犯だけでなく間接正犯も考えなければならない。それを監視カメラが写すことはないであろう。

 

故に、それを証明するには意志の伝言を突き止める必要がある。通信の傍受はそのための手段であり、合法的にするためには捜査令状を必要とする。そこまでしてやっとプライバシーは侵害可能なのである。

 

さて、ブロッキングの問題が取り上げられているが、これを理解するのは難しい。「通信の秘密」の侵害といわれても、うーんという気がする。通信とはAからBへの伝言とすれば、侵害とはつまり盗聴の合法性になる。

 

インターネットではその気になれば身を隠すことは容易い。アメリカがあれだけ取り組んでも、政府へのサイバー攻撃の犯人を特定できていない。もちろん、特定したが秘密にしている可能性もある。

 

追跡不能というのは中間地点が莫大にあるからで、それを支えるマシンがあちこちにある。それが悪意ある誰かが設置したケースもあるが、知らぬ間に踏み台にされている場合もある。そういうものをたくさん用意して使い捨てにする人もいれば、そこに罠を張って待っている人もいるだろう。

 

インターネットで分からないことがあったら、まずは高木浩光で学習というのが新人の態度というものであろう。

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ブロッキングも技術的には、誰がどのサイトへアクセスしようとするかを判断することだ。それが禁止されたURLならそこでアクセスを中断する。車でいえば、検問と同じだ。

 

この時、どこに行くのと運転手に聞く代わりに、通信の中身を覗き見ることになる。この時に使用する技術は盗聴と同じであるから、まずはこれが盗聴にならないかという話がある。

 

そもそもなぜ盗聴は許されないかという話になる。ひとつにはプライバシーの侵害がある。これを野放しにすると政府に強い武器を与える事になる。気に入らない勢力を盗聴、盗撮しまくれば、不都合な話のひとつやふたつは出てくるものである。例え違法ではなくとも窮地に追い込む情報は幾つもある。これを許せばフェアな戦いが維持できない。強者がより強者になり、弱者はさらに弱者になる。それをアメリカ憲法を書いた者たちは嫌った。

 

別に覗かなくても通行止めにしてもいい。それなら違法ではないか、という話もある。だが恣意的に通信網を調整できることは、それだけで特権階級を生む。制限することが特定のものへの利益でないとなぜ言えるか。

 

基本的に憲法に書かれていることは統治システムへの制限であるから、通信の秘密という場合は、権力から何かを守るためにある。法律ほど強固な盾はない。これが近代国家の土台である。ペンは剣より強いのも、そういう前提である。

 

近代国家の軍隊は乱暴者の集まりとは違う。その程度の集団など、その気になれば1日で鎮圧できるだけの武力と組織を持つ。この組織を動かすにはペンが必要なのであって、剣で脅したくらいで動くような軍隊などありえないのである。動かしたければ命令書にサインしろである。武器を買うにも書類が必要なのであって、サインしなければ一発の砲弾も用意できない。

 

この道筋がブロッキングへの懸念を生む。政府の情報統制への道、NTTはそれに簡単に靡く事が分かった。NHKは既に陥落済みであるから、各個撃破は成功している。元来、法律とは最も強力な政府への対抗策であるはずなのだが、法律を盾にすれば頑強に身を守れるはずの官僚でさえ簡単に落ちた、一民間企業においておや、という状況である。

 

これまで一部の状況においてブロッキングは認められていた。そこには緊急性という建前があった。今回の行動はどうか。実質的に今回ブロッキングされるサイトは既にこの世界にはない。この世界に存在しないサイトに対してNTTという大企業がブロッキングをする。これを異常と感じている人がいるのは理解できる。

 

一方で、これに賛成する人もいる。ブロックされるのはならず者たちだけです。だからみなさんは安心してください、という話だ。だから、みなさんの中に含まれている間は安心していい。

 

例えば、自分のブラウザのブックマークは他人には見せないものである、だけど、例えば Chrome を使えばクラウドで連携する。google はその情報を知っている。それはプライバシーの侵害になるか。厳密に言えば侵害であろう。それを悪用すれば、誰がどのサイトを見ているかも分かる。訪問サイトの情報を利用して、広告が出現しているのは明らかだ。

 

これを法律的にどう解決しているかは知らないが、恐らく合意しているはずだ(違うかも知れない)。データの利用の許可をしている。それをどう利用するかを許諾している。そうすることで利用者も便利になる。amazon で買った書籍はデバイスを変えても読める、この利点を手放す人はいないだろう。

 

これらは特定の個人の情報の扱いである。ユーザを認識し、それが不特定多数に対して公開されることもない。秘密を隠匿する。これが googleと I の間で結ばれた契約である。ここまでやることは許可する、という合意があったと解釈する。

 

これを超えて利用したから facebook は怒られているのだと思う。自分の顔写真を乗せ住所を特定できそうな写真まで載せているのに何がプライバシーかという考えもないではない。勝手に情報を扱う自由はないという合意がある。これ以上は知らない。

 

いずれにしろ、プライバシーの問題というのは昔はピーピングしかなかったが写真になって、インターネットになった。戦争では盗聴が決め手になった。技術的発展にともない考慮すべきケースも増えた。だが考えの基本に合意の有無がある。これは確からしい。

 

では契約した人は遮断を全て合意したものとする、と三社がそういう方向に動けばそれで十分ではないか、という話になる。そこで否と言いたければ、何故かを示さないといけない。

 

この動きが合法であるかどうかを最終的に示すのは憲法である、という考え方は恐らく筋が悪い。これの妥当性を決めるのは憲法ではない。憲法が掲げる理念によってである。そして、その理念に従うならば、検閲というものは最小であるべきだし、その行使には厳重な制限を設けるべきだ。なぜなら、それを許すことは国家権力の横暴を許すはずだし、第一、国民の革命権を侵害する。

 

さて、だが、ブロッキング賛成派も多数いるのである。例えば。

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ここでは当事者たちの損得が最大の関心ごとであって、被害者からすれば他人事ではないのは当然である。別の言い方をすれば国家の理念なんか知ったことか、明日の損害を回避するためなら、悪魔とでも契約する、とチャーチル張りの意見表明である。

 

これも十分に妥当な意見であろう。グローバル化した犯罪に対して、世界警察が存在しない世界では、各国家による各個撃破以外の方法がない。そして使用できる方法は検閲と同じ方法しかない、というものである。要は検閲とはこの世界から締め出す事なのだ。問題点は「誰」を締め出すかだ。

 

ここでも敵対するふたつの勢力の対立軸は政府機関の信用に極まる、それを信用できないとする立場、だからそのような力を与えてはならないとする帰結、または信用するとする立場、だからそのような力を与えても問題はないという帰結。その根っこにあの敗戦がある。政府をどこまで信用するのか。どこまでいっても、我々はあの敗戦という重力場から逃れていないのである。そして信頼するなら担保が必要、これが基本的な取引であろう。

 

反対派について特に注意する事はない。損害を被る者たちには深刻な問題であろうが、何かに留意すべきものは何もない。だが、賛成派に対してはそうは行かない。注意しておくべき事柄がある。ブロッキングを賛成とする立場のものたちが、次に何を狙っているかである。

 

彼らに国家の検閲に対する特権、つまり検閲する側に立ちたいという野望があるのは明らかである。国民を最大の狩場と仮定するならば、国家の中枢に食い込み法制化するのが一番スマートな方法だからだ。それが小泉内閣で竹中がやったことであり、その後に続くたくさんの人が出現した。

 

「検閲社会への反対」という考えは「国家による検閲」と一致しない。上手に語っているが、検閲社会に反対をするものが、自分の意見への反対、批判、中傷、罵倒を封じ込めたいと動いても、なんら主張に矛盾しないのである。そういう懸念がある。人は騙すと決めたら、最も信頼できる友人として振る舞う、これが鉄則である。これを見破るのは難しい。

 

いずれにしろ、今回の政府の動きの速さを異常と感じるのは正しい態度と思われる。我々はまだ答えを持っていないはずである。ならば、どういう思惑が、と感じるのも当然と言ってよく、そして書籍というものが衰退している状況において、これを上手く利用された、という感がある。言論が斜陽産業に成り果てるならば、それは丁度良い機会と思われる。

 

討つなら今だ。