「二度目の人生を異世界で」作者、中韓へのヘイトスピーチ認め謝罪 TVアニメのキャスト降板

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2018年6月5日 19:01

@mine_time2010
【お詫び】私の過去のいくつかのツイートにつきまして、多くの方に非常に不快な思いをさせてしまう、不適切な表現がありましたことを深くお詫び申し上げます。

 

事実関係を正確に把握せず、深い考えもなく行った発言ではありますが、行きすぎた内容であったことを深く反省しており、不快に思われた皆さまのお許しを頂けるとは思っておりませんが、心より謝罪させて頂きたいと思います。

 

ツイッターは、ツイートすべてを削除することに加え、悔悟の念を込め、この謝罪文の周知ののち、当アカウントも廃止致します。

 

また自著「二度目の人生を異世界で」の一部表現に関しても、自らの拙い文章表現と軽率な発言により、不快感をを与える文章となってしまっていることを、併せてお詫びいたします。

 

そのため「小説家になろう」上の該当する箇所の公開を停止し、二度と皆様に不快な思いをさせることの無いよう改めて内容を精査いたします。また、書籍版に関しても、該当書籍の修正を行えないか、出版社と相談いたします。

 

改めまして、この度ご不快な思いをさせてしまった皆様および、ご迷惑をお掛けした関係各位に、ここに深くお詫びを申し上げます。 

 

ビジネスとして見れば、ヘイトは非常にリスキーだし、話次第では原作者でありながら損害賠償請求される事案である。

 

ZOZOの前澤友作が tweet で、「過労死=自己責任」と書いた(正確ではないが)田端信太郎の発言を企業としては支持する意向を示した(もし不支持なら解雇しているはずである)。

 

ビジネスモデルとして考えれば、これだけの発言をしても支持する層というのは、もう何をしても支持する層なのであり、その圧倒的な基盤がビジネスに益である、という考え方も納得できるものがある。どれだけ落ちても此処までは確保できるという目安を知るためにヘイトや炎上は活用できる。

 

これを企業の宗教化と呼んでも差し支えないと思う。極めて強い支持の存在は、例えばオウムにさえ未だ活動のみならず、新しい信者が獲得できる事からも益は明らかだ。

 

それを企業活動で応用するには、エバンジェリストや、ベンチャーの起業家、スタートアップなどの手法としてキャラクターを活用するのがよい。世界で最も成功したキャラクターがキリストであることから、その応用例がネットに乱立するのは自然である。

 

この作者の作品は読んでいないが、これらの発言を信じるならば、この人の考えは明白と思える。

 

「行きすぎた内容であったことを深く反省」

行き過ぎたという場合、方向は合っているという認識だからヘイトそのものは間違っていないと認識している。

 

「自らの拙い文章表現と軽率な発言により、不快感をを与える文章となってしまっている」と陳謝。 

 陳謝とあるが、不愉快の原因が<<拙い表現>>と<<軽率な発言>>によるもので、ヘイトが原因ではないと認識している点に注意が必要。

 

過去の投稿を「多くの方に非常に不快な思いをさせてしまう、不適切な表現がありました」と謝罪。 

 不快にさせた事が不適切なのであって、思想の信条とは関係ないという認識。

 

発言の意図を「事実関係を正確に把握せず、深い考えもなく行った」と説明。

<<間違った事実>>に基づいたと認識することで、撤回の正当性は確保している。

 

ここで重要な事は、中国、韓国への敵対的発言について撤回したわけではない事である。そう簡単に信条を手放せる訳でもない。多くの反省、謝罪がこの国では、いずれも表現の問題として扱われる。表現とは本当に単なる表層的なものであるのか、という議論は留保するとしても、それで通用できるのは不思議だ。

 

表現の問題であって主張は全く正しい、という論理には賛成できない。

 

もちろん、この国には思想の自由も言論の自由もある。そこにおいて中国、韓国を警戒する必要はゼロではないし、はっきり嫌う自由もある。それについて批判する気はない。

 

だからと行って、幾ら自由でも、不快感を与えるのはビジネスにおいては二流であろう。回避すべきと普通は考える。

 

しかし不快感は流動的なのだから、例えば、中国や韓国を擁護したり友好である事に不快と表明する人もいる。

 

畢竟、ビジネスは多数派で決まるものであるから、良識だの常識という流動性に立脚するのは望ましくない。一方でビジネスではある程度の売上が確保できればよく、それがヘイトを好む人で達成できるならそういう方向に舵を切る戦略が採用されても不思議はない。炎上発言によって、次の選挙で当選しよう目論み藻掻く杉田水脈のような政治家は幾らでも実在する。

 

流動的な世論ならばいっそ変えてしまえばよい。と活動する人もいる。それが対立を生み顕在化すればするほど、国としての力は弱体化する。国家の最大の弱体化が内戦であることを考えれば答えは簡単である。内戦状態になっても他国から支配されないのは、国際社会の都合に過ぎず、ジェノサイトが容認されれば明日にでも進撃するという国家はアメリカであれ、中国であれ、日本であれ、イスラエルであれ幾らでも存在するのではないか。

 

ではこの国の良識とは何なのだ、という話になるが、その時に発生する事件、事故、国際情勢によって流動するものである。昨日の正義が今日の正義とは言い切れない。風見鶏のように風に向かうなら未だしも、流れに翻弄される笹舟では将来は不安である。どちらも好きな場所に行けないのは共通している。

 

どのテレビ局がこのアニメを放送するかは知らないが、話題作りとしてのヘイトは十分に効果的と思われる。しかし、韓国にしろ、中国にしろ経済的には元気であって、日本が衰退しつつある今、ここで敵対する理由が分からない。何らかの戦略があるなら別だが、「敢闘精神の不足を補えば継戦は可能」以外の手段は持たないであろう。その点が強く糾弾される話に尽きる。

 

正義も正論も流動する。ギリシア人は流転すると言ったか。そんなもので相手を屈服させられるならこれほど息災な話もない。戦前の宰相も語ったではないか。「我々は諸先生の卓見ではなく、大砲の数と相談しているのだ」。これが結論である。