死亡の5歳、ノートに「おねがいゆるして」両親虐待容疑

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この問題は幼い子どもの手紙によって多くの人に共有されている。こういう問題が起きた時に、我々に出来る事は少ない。だが捜査する当事者たちが怯まないよう強く後押しする世論を形成すべきだろう。

 

既に手遅れ、事後とは言え、きっちりとしなければならない事が幾つかある。ひとつ目は、問題の直接的責任の追求である。もちろん、殺人犯である両親を有罪にしろという話である。ここに難しさはないように思える。

 

もちろん、虐待には連鎖があり、また弱い者は更に弱い者を叩くTHE BLUE HEARTS TRAIN-TRAIN構造がある。この両親がそういう状況に追い込まれていなかったかの検証がいる。再発防止のためではなく、他のケースに応用するためである。情状酌量の理由にはなるまい。

 

ふたつ目に必要なのが、残された人のケアである。妹がいるとの報道だから、誰がケアしてゆくのか。心理的にも激しい傷を負っている可能性もある。どうすればよいか。里子など幾つかの手段はあるが、どれが適切かは誰にも分からない。

 

みっつ目は、間接的責任の追求である。責任という言い方には語弊があるかも知れない。まずは事件の構造を分析する。その上で構造的な欠陥がなかったかを検証する必要がある。立法であれ、予算措置であれ、条例であれ、省令であれ、改善策はあるはずだ。

 

特にこの事件の特徴は何度もチャンスがあった点にある。なにより香川県警が二度も書類送検している。その時点では十分な効果を持っていたと思えるのだ。だから検察が不起訴にした事を激しく追及すべきだろう。反省が見えただの、どうせ有罪にならなかったなどと言い訳したならば検察官が共犯の可能性がある。

 

香川県警の活動によって、彼らは東京に引っ越したのだと思う。その上で、県の児童相談所と区の児童相談所も密に連絡をしたのはよい仕事である。ここに不備はなかった。それでも防げなかった。それは児童相談所に強制権がないからであろうか。

 

こういうのに強制力を持たせるのをこの国の立法は好まない。それにも一理ある。一理あるが、何事も全てではない。抜け落ちるケースに対して、とたんに無力になるのは頂けない。

 

現場の人達だって、まさか、それが今日起きるのかと唖然としただろう。これまでの苦い経験から幾つものフィードバックを経て、現場の連携に構造的欠陥があるようには見えない。何度かの救えるチャンスを失ったのは残念だが、それぞれの時点に特に問題があったようには見えない。

 

だが、それが栄養失調状態になっても何も出来なかった理由にしていいはずもない。この事件からは何かフィードバックを得ないといけない。

 

多くの人が問題意識を表明すれば、行政のみならず、立法(こういう事件は政治家の大好物だろう?)が動く。そうすればより強い改善が期待できる。

 

少なくとも、何をやっても防げなかった事件ではないように思う。まだ打てる手はあったはずだ、その後悔だけがこの事件の中に残った唯一の希望と信じる。