袴田事件の再審認めず、釈放は維持 東京高裁決定

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この事件はとても不思議である。起きたのは1966年、裁判が1968年。再審するなら、当時の捜査官、検察、判事を連れてきて、お白州で鞭打ちながら真実を述べさせる責任が裁判所にはある。

 

だが、当事者の誰が生きていて、誰が既に死んだかも不明な状況で、当事者が一人しかいない裁判である。その上、どうも冤罪らしいという状況証拠があって、問題は、それがどうひっくり返しても決定的な証拠になっていない点である。

 

DNA が違うなら決定的ではないか。そう思えるが、鈴木広一大阪医科大教授が、本田克也筑波大教授の方法(抗Hレクチン使用)がDNAを分解するため、結果には疑問がある、と指摘した。

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(検証報告全容判明「試薬にDNA分解成分」 袴田さん弁護側鑑定|静岡新聞アットエス) 

 

DNAは例えばネアンデルタール人の骨髄から取り出したものを検査する場合でも、ほんの少しの油断ですぐに汚染される。触るだけでもヒトの指の表皮上のDNAが付着する。それでもうDNA汚染である。もし空気中にそれが漂っていれば、どうなるか。だから厳密に行うなら、無菌ルームを用意するくらいでなければ通用しないのだ。

 

DNAが信用できないとなれば、第一審の根拠を失う。だから有罪である、という流れは、この事件の本質とみれば正しいようには思えない。本事件の本質は、警察がニセの証拠をでっち上げた可能性が高い事ではなく、この証拠で有罪とした裁判官の判断能力への疑念であろう。

 

この証拠ではどちらとも言えない。弁護団はそう主張したいはずだ。ここが要点であって、DNAを信用できない事が、それ以前の主張が正しいとも誤っているとも決定できない。だから難しいと一般的には考える。これはそういう類の事件であろうと思っている。

 

だが、裁判官としては証拠の扱いの厳密性を変えれば、すべての刑事事件の根幹に関わるから、その影響を思うと、そう短絡に認める訳にもいかない。それが本当に正義であるか。そう短絡に言えない証拠だから難しいのである。

 

例えば一万年前の殺人事件について、当事者が転生してきて、現在の最新科学で無実を証明してくれ訴えるクライムサスペンスがあったとする。

 

死体がミイラにでもなって残っていれば幸いだが、もし骨だけなら死因しか分からないだろう。骨がなければお手上げである。凶器の石器だって、既に証拠は失われているはずだ。もし土器などに指紋でも残っていれば成立するかも知れないが、そういう可能性しかない。

 

たった50年でも現在の科学は無力である。だからといって、冤罪の可能性について、それをどう扱うかは、裁判官の良心に依る。

第七十六条、すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。 

 

だが良心に従う自由はあっても、説明しなくて良い理由はない。だから判決文には必ず判決理由が書いてある。この証拠は信用できない、この証拠は信用できる、と書いてあるが、もしそこに瑕疵があった場合、その無能さについて糾弾されなくてよい理由はない。

 

そのような怖さを裁判官は持って判決をするものだが、時に検察の犬としての役割しか自覚しない裁判官もいるし、常に一審とは逆の見方を提示する事で、三審への露払いを自分の役割と考える裁判官もいる。人事考課にしか興味のない裁判官だって沢山いる。

 

この事件が本当の所はどうだ、と問われれば、答えはあるまい。誰にとっても答えのない事件で、誰かが決めなければならないとしたら、最終的には、疑わしきは被告人の利益に頼るしかない。実はこの言葉は裁判官を守るためにある言葉だと、納得した。

 

大島隆明の判決の妥当性はどう考えるかは実は難しい。心情的には無罪と言いたい所だが、それが本当に正義か。もし本当は有罪だったらどう考える。だが、本当は無罪だったらどうかと考える。

 

それを決断する証拠はなにひとつない。すべてが状況証拠。だから、過去の判決に重きを置いた判決にも合理性はあるだろう。だが、警察によるお粗末な証拠捏造にころっと騙されている可能性も捨てがたい。

 

だから裁判官は僕たちを納得させるなければならない。裁判官の本当の仕事は判決を下す事ではない、すべての傍聴人を納得させることが出来るかどうか、それを言葉を尽くして語る事ではないか。

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 (大島隆明裁判長とは (朝日新聞デジタル) - auヘッドライン)

 

おそらく弁護士たちは判決文を一文一文読み込んで、どの点を覆せば無実となるかの解析を始めたはずだ。いずれにしても、これがもし冤罪であったならば裁判官を罰するという制度があったら、とも思うが、もしそうなったら司法制度は根幹から崩れる。そんな制度のもとで有罪を下せる人など誰もいない。だからといって、無能者の好き勝手を許す制度も望ましくはない。

 

近代国家を支える司法の最大の焦点にあるものが、良心というもので、それが人間の気まぐれと何も見分けがつかない事は、注目に値する。そのようなものに近代国家はすべての土台を築いたのである。

 

それを AI で置き換える未来は到来すると思う。その時、国家はどのような姿をするであろうか。