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書き溜めの集積場

エヴァ作詞家が物議「HINOMARU」何がアカン

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この歌を発禁によせという主張は支持できない。だからといってこの歌が気に入ったわけでもない。

 

この歌詞をどう思ったか。個人的には陳腐としか思わないが、確かな事はこのような暗喩、隠喩(metaphor)を多用した創作物は、その解釈は自在にできる。ふたつの全く異なる意味を読み取ることさえ可能だ。

 

だから冷静な議論をするのに、自分はこう読み取ったでは不十分であり、可能な限りの解析を行った上で、どういう読み方が可能か。その多彩さを味わうべきだと思うのである。

 

さらっと読んで気になったのは次の箇所である。

ひと時さえ忘れやしない、帰るべきあなたのことを
たとえこの身が滅ぶとて、幾々千代に咲き誇れ 

 

帰るべきあなたは誰?

たとえこの身が滅ぶ、そう聞けば、松蔭を連想する。それ以外の連想はできそうにない。先に様々な解釈が可能と書いたが、読んでみると多彩な解釈はない。天皇をイメージするか切り離すか、それくらいしか別れ道はなかった。

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂

この歌は朽ちぬと書いてあるから、魂は残っているという読み取れる。

 

この手の歌は軍人が好んで読む。

土方歳三 

よしや身は 蝦夷が島辺に 朽ちぬとも 魂は東の 君や守らむ 

牛島満

秋をまたで 枯れ行く島の 青草は 御国の春に またよみがえらなむ

東条英機

我ゆくも又この土地にかへり来ん国に酬ゆることの足らねば

 死んだ後の国のことを思う歌であるが、東條の歌は大きなお世話である。こんなのは成仏できない悪霊を倒す漫画である。

 

歌には些細な個人の人生観までが残るから怖い。そこまで国の事を想って偉い人という考え方もできるが、国に依存しなければ自分の人生を確立できなかった依存性の人と読み取る事もできる。

 

松蔭の歌が偉いのは、そういう未練があるけれどない点にある。私は朽ちる。だがこの魂だけはここに置いてゆくね、という歌である。置いてゆくと書いてある以上、もし要らなかったら捨ててくれて構わないという意味も託されている。未練はある。だけど、自分の未練はすっぱりと断ち切っている。

 

牛島の歌もまた同じで俺は早く枯れちゃうけど、また実ってね、という歌である。清々しい。

 

まるで心配で眠れないんだ。だから僕の代理としてこのロボットを君に託すよ。それで何をするのも君の自由だ。さあ私は逝くね、そう語った博士のようだ。

 

さて、この歌詞はどうか。語句の元ネタがそれぞれナンダカでアレなんだけど、意味は「私が消えても元気でね」であって、なんら強制力や全体主義の雰囲気はない。なのに、何故だろうか。意味はそうであるはずなのに、全体の印象は素直に受け取れない。警告音が鳴りっぱなしである。

 

古よりはためく旗に 古だと国旗ではなく錦の御旗になりそう
この国の御霊 御霊とくれば靖国神社
遥か高き波くれど 本日晴天なれども波高し
僕らの燃える御霊は 生きてる人間に御霊を使うのは死の暗喩?
受け継がれし歴史を手に この歴史には敗戦も含んでいるはず
恐れるものがあるだろうか 恐れるものがないのなら戦争の指揮は取っちゃいけないよ
守るべきものが今はある 誰にでも守るものはあるけど、それを決めないで
帰るべきあなたのことを 天皇の解釈が十分に可能
たとえこの身が滅ぶとて 松蔭の辞世の句
幾々千代に咲き誇れ 国歌のイメージ(千代に八千代に)

 

この曲の古典調と選ばれた単語からは、どうしても靖国神社が連想される。それを後押しするのが「僕ら」という言葉である。この歌の特徴は「僕ら」という複数形にある。みんなで行こう、そしてみんなここに帰ってこようという話をどうしても思い出してしまうのである。

 

それだからこの歌が悪いという話ではない。連想がどうしても特攻隊になってしまう。それはそう仕組んだとした考えられないという話だ。だから、先程の「たとえ身は滅んでも、末永く咲き誇れ」が、まるで「誇らないような咲き方」は認めないと言っているように聞こえてもくるのだ。

 

そういうイメージを切り離せば別の解釈ももちろん可能である。ワールドカップのあるこの年に、この曲を日本チームの応援歌にすることも不可能な話ではない。別に古語調の言葉選びも悪いものではない。ロシアである。日露戦争調で決めるのだ。ロシアとは別グループだけど。

 

この曲の骨格は、燃えろ、挫けない、恐れない、揺らがない、である。否定形が多い。否定形というのは人間の深層心理では取り除かれるので、挫ける、恐れる、揺らぐに転換される。

 

つまり深層心理ではこの歌は負ける側の歌である。勝利する側はこのような否定形は使わない。負けないで、とは言わない、勝利と言い切る。ZARDの負けないでを届けたいのは負けつつある人ではないか。

 

日本代表を応援するのに、最初から負けを考えるやつがあるか、と猪木にならビンタされそうな場面であるが、冷静に考えれば、負けるはずなのである。それを正直に書いたらこうなった。そう読めなくもない。

 

すると、この詩に対する真っ二つの論調は、勝利と敗北のどちらの立場かによって決まりそうだ。だが、ここで勘違いすべきでないのは、どちらの立ち位置もその深層心理では負けつつあるという共通認識がある。

 

「挫けないで」という応援歌によって更に奮い立つと考える人、「挫けないで」という歌詞が負けを認めろと聞こえる人、そのような状況においても士気だけで乗り切ろうとする主張に、いかにも策がないと憤りを感じる人。感じ方は人ぞれぞれである。ただ自分の好き嫌いだけで論調を決定するのは好きでない。

 

自分がどの立場になるかはそれぞれの人の生き方や現在の生活基盤が支えるので、どれが正しいとは一概には言えない。どの解釈も正しい。

 

もうじき始まる日本代表の試合で、これらの気持ちが存分に味わえる。しゃかりに応援しようじゃないか。興味があるならば。6/19 (Thu) 21:00 である。

 

最近は、西城秀樹の歌ばかりを聞いている。